本の虫生活

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天はもう要らない ー白銀の墟 玄の月 感想 ―

十二の国に、十二の王。

徳を天に認められた王と、その王を支える慈悲の生き物、麒麟

 

仁治が約束された世界で、それでも争いは絶えない十二の国の物語の集大成は、

 ‟天はもう必要ない”

なのかもしれません。

 

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

十二国記シリーズ長編最終巻『白銀の墟 玄の月』を読了しました。

先月に1,2巻、今月9日の3,4巻が発売された本作は、18年ぶりのシリーズ最終巻とはいえ、驚異的なほどの熱狂で世間に迎えられたのはとても驚きました。

出版業界の近年の低迷から考えても、一部の人しか話題にしないだろうと思っていたので、各地で売り切れ続出となるこの熱狂に、なんだか嬉しくなりました。

 先月の1,2巻は台風直撃で発売日に買えず、でも3,4巻は発売日に手に入れて、土日であっという間に読み終わりましたが、咀嚼に時間がかかって、暫くは感想を言葉にすることができませんでした。読む度に感極まってしまって、3週目くらいからようやく落ち着いて読めました。いけません、歳をとると涙もろくて…

 

※注 以下『白銀の墟 玄の月』等、十二国記既刊のネタバレを含む感想です

 

ここからは新刊のつれづれ感想です。

新刊を読み終えたとき、「???…!?」と言葉にならない怒涛の感動、困惑に襲われました。新刊に臨むため、既刊『魔性の子』『風の海 迷宮の岸』『黄昏の天 暁の天』を読み返していたから、何となく予想していた展開と違い、1,2巻では特に困惑が強かったです。「黄天~」ではじめて天というシステムが具体的にその一部を現したので、続編では天についてもっと核心に迫るなにかが明かされるだろう、今まで圧倒的な存在として君臨していた天と、地上を生きる人びとの対立や緊張、動乱があるかもしれないとちょっと期待してました。天とは慈悲を持って人々へ恵を齎すものでありながら、ときに地上の荒廃を放置し、無慈悲に思えるほど感情を排除した対応をしています。それに歯向かった李斎や、天は無謬でないと言い放つ陽子が描かれた前作のイメージから、「天VS人」もしくは、「王を必要としない民」(既に黄朱という人々もいるけれど…)という構図が見られるかも。もしそうなるならば、物語は大転換を見せるかも、と期待半分不安半分で、妄想しながら新刊を待っていました。

 

けれど、思っていたのと大分違う話の流れに、1,2巻で「…??」と?が乱舞しました。わからないけど、予想通りだ!という読者はかなり少なかったのではないでしょうか。

阿選に叛かれ行方知れずとなった驍宗が、蓬莱から帰還した泰麒と李斎と再会し、民と力を合わせて偽王阿選を討つ、というのが大筋だろうと思っていましたし(実際、『月の影 影の海』や『風の万里 黎明の空』の展開を経験していたため、不安ではあるがまあハッピーエンドにはなるだろうとたかをくくり、1,2巻が衝撃の展開で終わってもそこまで動揺はしませんでした(ただ、本作のタイトルが廃墟の『墟』や黎明や暁という光を一切感じさせない『玄』であることから、もしかしたら偽王を討ち、国は助かるが驍宗は禅譲するかもしれない…とはちょっと思ってました。玉座を開けて民を苦しめた罰として…とかはあり得るかと)。

 

実際に1巻から読み始めてみたら、驍宗の痕跡らしきものもずっと空振りで、かつての麾下も行方知れず、李斎と泰麒は離れ離れに、肝心の泰麒の心の内は読めず、…と思ってた10倍くらい不穏で殺伐としていたのでちょっと驚きました。半分を過ぎて不在の王の在り処が一切わからず、周到に玉座を奪った阿選は表に姿を見せず、やる気を失っているようで、内心は窺えない。そして後半に怒涛の盛り返しが来たと思えば急速に情勢はひっくり返り、怒涛のラストへと繋がってあっけなく阿選は倒される。多くの方が意外と思ったであろうことは、あれだけ周到に驍宗からすべてを奪った阿選と驍宗の直接対決はなく、しかも阿選の敗北が後日談として史書に書かれるだけ、という諸悪の根源に対する扱いの軽さ。何となく肩透かしではないけれど、初読では「あれ?これで終わり??」となる感じが少々ありました。

 

でも、違ったんですね。ラストはあれで完結していたんです。

4巻まで読み終え、ゆっくり読み返していくうちに、本作は紛れもなく十二国記シリーズの集大成である、と感じるようになりました。

十二国記は、王と麒麟の物語ではなく、最初から民の物語でした。民を描くために、俯瞰するように王があった。人とかけ離れた麒麟を通して、人の醜さ、辛さ、可能性が延々と語られていたことが、ようやくわかってきました。

 

それが、端的に現れたのがこのシーンだと思います。

「私が生きてここにある。そして天を信じている。—そうではなく、天がわたしを生かしているのです」

「私という存在は、始まりではなく結果なのだと理解する」

 (「白銀の墟 玄の月」三巻 p298より一部抜粋

 作中の宗教者が過酷な修行の末に悟ったこの言葉。わかるようでわからない、でもなにかと頭に引っかかるこの一言が、十二国記という壮大な物語の核心の一つと言えるのではないでしょうか。

圧倒的な天を信じ、祈り、ひれ伏す。ではなく、「わたしが生きていることは、天があるということなのだ」と言う。

もはやここまで悟れば、天は信じるとか信じないではなく、空気や水のように当たり前ことなのだと。そして、当たり前のもの対しては、もう恐れたり試したり、すがったりする必要はない。わたしが今生きていることは、そのまま天の、天の与える奇跡を証明しているのだというこの悟りは、逆に言えば、「天はもう必要はない」ということではないでしょうか。

 

天を信じるために足掻いたり、天の奇跡(恵み)を得るために祈ったりしなくても、わたしはもう天とともにある。満ち足りている。これは、ある意味で天の支配から解放されたも同然かもしれない。

繰り返しシリーズで示唆されてきた、「天」への反抗は、ここで結実したのだと思います。

 

天に対して過剰に期待をかけない楽俊。

王など選びたくないと拒んだ六太。

王など生まれたときから居なかったから本当はどうでもいいと言う朱晶。

非道な王を追放し、民に望まれて仮朝を開いた月渓。

天を疑い、戴を見捨てるなら玉座は要らないと云い切った陽子。

 

どれも、天の奇跡と恵みひれ伏すというより、軽視して顧みないともいえる言動で。

 

人々の行いを監視し罰や恵みを与え、王が非道に走れば次の徳のある王へと挿げ替え、麒麟を通じて慈悲を施す。王に世襲はなく、政治の腐敗が続きにくい。子は天からお墨付きを貰えなければ授かることのできない、子どもへの虐待の出にくい機構。理想的に見える世界で、だからこそ天の権威は絶対で、逆らうことや軽んじることは許されない。そんな世界から、民が自立する物語。最終巻まで通じて描かれたテーマは、人々の自立なんじゃないかと思います。

 

 麒麟の本性にどこまでも逆らい、凄まじい活躍を見せた泰麒の成長が本作の大きな見所の一つでしたが、麒麟が民意の具現ということを考えると、戴の民が天の支配に逆らった話とも読めます。

発端は李斎の出奔で、諸外国が一致して他国の救済をするなど、元々天の想定にない事態を引き起こし、「自ら正されるのを待て」といい麒麟と王が倒れることが正道と言いのけた天に言い返して泰麒を取り戻した戴の民が、見捨てられた祖国を自分たちの力で取り戻していく、そういう物語と思うと、シリーズで張り巡らされた伏線の数々に眩暈がしてきます。

「人は自らを救うしかない、ということなんだ—李斎」

 (「黄昏の岸 暁の天」p390より抜粋)

前作のこの言葉に対する答えが、4巻に及ぶ本作そのものです。

 

天が見放した王と麒麟を、民が自らの手で取り戻した。

奇跡などなくても、希望だけで充分だと泰麒を求めて。

何年も行方不明の王に忠義を立てて耐え忍ぶ麾下と、荒れ果てた廟に鴻慈を捧げる者と、挙兵に備えて武器と備蓄を集めた商人と、亡くなったと思ってなお自分達の食い扶持まで恩人に捧げた家族と、危険を冒して民の救済にあたり続けた道士たち…。民の努力が天の意向を変え、結果を変えることとなる。これは、前作でも示唆されたことでした。

「結局、そういうことでしょう。自身の行為が自身への処遇を決める。それに値するだけの言動を為すことができれば、私のような者でも助けて差し上げたいと思うし、場合によっては天すらも動く。周囲が報いてくれるかどうかは、本人次第です。(後略)」 

 (「黄昏の岸 暁の天」p449より一部抜粋)

 

そして、他作からもう一つ。シンプルだけど心を打つこの一言。

「人が幸せであるのは、その人が恵まれているからではなく、ただその人の心のありようが幸せだからなのです」

(「風の万里 黎明の空」(上)p163より抜粋)

 

苦しいならば、苦しさから抜け出す方法を考える。そして行動する。その言動の結果が報いにつながるかもしれない。そして、いま自分が在ることが全てと悟る。

シリーズで問いかけられ続けた答えが、最終巻で導き出されたと思うと、18年の空白などなかったようで、心から驚嘆します。

 

 

本作が、園糸にはじまり、そして終わるのも感慨深いです。

王が玉座に還るとか、偽王と戦うなど本当はどうでもよくて、ただ自分の足で自分の人生を歩むのだという、そういう民の視点にはじまり終わるのが、如何にもこの作品らしいです。項梁にすがっていた園糸が、ラストのシーンでは寂しさを抱えながらも居場所を見つけ、人生を歩んでいく。項梁が戻ったとしても、もう戻ってこないとしても、それでもきっと歩いていける。派手ではない、でも連綿と続いていく日常を愛おしく思える、それを、嫌みなく過不足なく描き切る、この表現がとてもすきです。

 

語りきれないけれど、きっともっと語りたくなる。

十二国記は、終わりのない物語です。