本の虫生活

おすすめ本の紹介などしています。著者をア行からワ行まで順番に。

【五十音順・おすすめ小説紹介】60冊目 フィリップ・K・ディック

おすすめ本紹介、60回目です。

 

こちらの連載記事はなかなか筆が進まず、久しぶりの更新がとうとう2020年になりました。今年はどんな本に出会えるかワクワクします。


読んで頂いている方はご存知と思いますが、この連載記事では著者の五十音順に、わたしのおすすめ本を紹介しています。
今回はフィリップ・K・ディック氏。

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

高い城の男 (ハヤカワ文庫 SF 568)

 

 

 有名すぎて逆に選びにくいSF界の巨匠、ディック氏。

「電気羊」の方とどちらにしようか悩みましたが、今回は高い城の男を選びます。

あらすじを簡単に説明すると、「第二次世界大戦で勝利した陣営がもしも逆だったら」という「もしも」の歴史を描く歴史改変SFです。

あらすじを知ったときから気になっていて、確か2年前くらいに読みました。ドイツと日本が勝利した世界で、敗戦国となったアメリカの美術商の目を通して描かれる日本人やドイツ人、というなかなか想像できない、したことのない世界が描かれる刺激的な読書でした。

正直に言うと、ディック氏の文体はとっつきやすくはないので当時さらっと読み流してしまったところが多々あったと思います。思い出しながらこの記事を書いてみて、中国とイメージがごちゃまぜになった日本人像や、「わたしたちの(本当の)世界が虚構として描かれる小説」など、複雑な構造をイマイチ理解できていなかったと思ったので、今年はゆっくり読み直してみたいと思います。

 

おととしの年末に読んだ「チャパーエフと空虚」のように、欧米から見た日本は、中国や他の東南アジアのイメージと混ざりやすい、意外と曖昧で不明瞭なものなのかと思うとちょっと面白いです。ディックが執筆した頃はSNSもないし、日本のイメージ等かなり適当だったと思います。でも考えてみれば、わたし自身も欧米諸国の国ごとのイメージは漠然としていて、自分が持っているイメージと欧米の各国の内実はきっと大きく違うことでしょう。「高い城の男」を読みながら、奇妙な描かれ方をする日本人がちょっと面白かったのを思い出しました。

また、物語の構造として面白いのは、「虚構の物語のなかで、虚構として‟現実”が描かれる」という表現技法です。どこまでが虚構で、どこからが現実なのか、読みながら混乱するような、幻惑されるような独特の雰囲気が魅力です。捉えどころがなく結構読みにくさを感じますが、何度も読み返しても楽しめる作品だと思います。

 

ただ、わたしはディックの作品をあまり読んでいないので(電気羊と高い城の2作しか読んだことがないです…)、そろそろ再読と一緒にもう1作くらい挑戦してみようと思います。SFは好きですが、最近なかなか内容の濃い本に手が伸びていないので。

 

今年の初記事は以上でした。

今年は多くの人にとって楽しい1年になりますように

 

 

2019年ベスト本10選

もう年越しまであとすこし。

今年読んだ本の振り返りを兼ねて、読んだ本の中でベスト10を選びました。

今年は新しい本からあまり読んだことのなかった海外小説、話題の本もランクインしました。

素敵な本が多くて選ぶのが難しかったけれど、特に衝撃的だった本を集めました。

それでは、以下発表。

f:id:zaramechan:20191222174854j:plain

(画像は彦坂木版工房のパンカレンダー。質感がおいしそうで好きです。本文には何も関係ないありません)

 

 

 

 👑第1位 白銀の墟 玄の月

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

  • 作者:小野 不由美
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2019/10/12
  • メディア: 文庫
 

 今年の第一位は、待望の十二国記新刊に決めました。

わたしは18年待った訳ではないけれど、長く長く続きを待っていたファンの人達の熱気にちょっと驚きました。あれだけ長い間、新刊を待っていたファンがいるというのは、凄いなと思います。

十二国記はジャンルでいえばファンタジーだけれど、圧倒的な現実感、地に足のついた重厚な物語が魅力です。未読の方もこれを機に読んでみてほしい、辛くて厳しい世の中にこそ広めたい、不屈の意思を思い出させてくれる作品です。

※全然内容の紹介になっていないので、気になる方はよければ過去の記事もご参考にしてください

十二国記シリーズを簡単に紹介

 十二国記最新刊の感想

 

 

 👑第2位 リヴィエラを撃て

リヴィエラを撃て(上) (新潮文庫)

リヴィエラを撃て(上) (新潮文庫)

  • 作者:高村 薫
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1997/06/30
  • メディア: 文庫
 

 今更ながら、髙村薫に撃ち抜かれました。を読んで仰天して、つづいて『神の火』を読んでスパイものの格好良さに悶えて本作『リヴィエラを撃て』で完全に虜になりました。スパイ小説というのは、ミステリやSF、歴史もの等に比べて流通量が少なく、柳広司の『ジョーカー・ゲーム』が流行ったときにすこし脚光を浴びた、というイメージでした。なので、髙村薫のスパイ小説を読んで、日本にもこんな重量級エンターテイメントのスパイ小説があるとは、本当にびっくりしました。

20世紀末の日本で起きた謎の男女殺害事件。「リヴィエラ」という謎の名前を残して亡くなった元テロリストの男と、世界的ピアニスト、イギリス、アメリカのスパイの関係とは…。内戦が続いた来たアイルランドとイギリスで、不毛の戦いを続けるテロリストの子ども、著名な貴族であり実業家として裕福な生活を送るが、自由のないスパイ活動に倦む男、世界で活躍しながら謎の失踪を遂げたピアニスト。どの人物も怪し気で、誰もが虚実入り混じる世界で、隠された真実を追っていくのはミステリのようでワクワクして、非情なスパイの世界に冷や汗をかき、自由を求める個人の戦いに惹きこまれる、最上級エンターテイメントで感情がぐちゃぐちゃになりました。

十二国記とどちらを一位にするか迷いました。今年は髙村薫の年でした。

☟以下に、他の本の紹介も書いてます

 

 

 

 👑第3位 三体

三体

三体

  • 作者:劉 慈欣
  • 出版社/メーカー: 早川書房
  • 発売日: 2019/07/04
  • メディア: ハードカバー
 

 今年話題をさらった珍しい中国SFの新刊、『三体』。奇抜で展開の読めない物語がとても面白かったですが、まだ三部作の1作目なので、今回は3位としました。続く2作に期待します。

 文化大革命の時代に父親を殺された女性科学者が、天文観測所で宇宙からのメッセージを受信する。その日から、すべてははじまった。異星からの侵略、高度な知的生命体の襲来など、おおまかなイメージはよくある古典SFものだけれど、ディテールの作り方が奇抜で独特な作品でした。3つの『太陽』を持つ三体星系からやってきた知的生命体‟三体人”は、峻烈な気候に対応するため身体を特殊な構造に進化させ、生き残るために高度な知能を磨いてきた。強大な軍事力を持って征服を企むというより、高度な科学技術で地球の人心を動揺させる心理戦を仕掛けてくるのがまず意外で、さらに侵略される地球側から、三体世界の降臨を望む一派がおり、入り乱れた勢力争いが今後の展開をさらに読めなくする。三体世界への理解を浸透させるために作られた『VRゲーム』の不思議さも気になる。一回読んでもわからない、でももっと読みたくなる奇抜なSFでした。

 四千年の歴史をゲームに織り交ぜたり、文革の無惨さを垣間見させる描写が中国らしくてまた新鮮でした。

 

 

 第4位 菜食主義者

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)

  • 作者:ハン・ガン
  • 出版社/メーカー: cuon
  • 発売日: 2011/06/15
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 第四位は韓国文学から。

読書会を通じて知った作品で、韓国の方が書いた小説ははじめてだったので少しドキドキしました。短いながらも切れ味鋭く、なあなあにして見ないようにしていた『現実』を眼前に突き付けてくるような迫力ある作品です。

タイトルの通り、「菜食主義」をはじめたある女性と、家族や周囲の人間を描いた連作短編集で、普通で目立つところがないと言われていた女性が、徐々に周囲の人間から「狂気」と思われる行動をとるようになり、どんどん日常が壊れていく、そんな経緯が淡々と描かれています。わたし達が普段ふつうと思っている生活、当たり前と思っている常識が、どれほど曖昧で頼りないものか、一度壊れてしまえば修復できないものか、或いは、脆いのになかなか壊れない、壊せないものか、そういうことを考えさせられました。過去記事で紹介をしたので、興味のある方はこちらもあわせてどうぞ。

 

 

 第5位 リラと戦禍の風

リラと戦禍の風

リラと戦禍の風

 

 推し作家上田早夕里さんの今年の新刊を選びました。『華竜の宮』で度肝を抜かれてからすごく好きになった作家です。

本作は第一次世界大戦の欧州を舞台にした歴史ファンタジー小説。上田さんの作品は幻想的な短編もいくつかあるけど、長編ファンタジーはなかったので新鮮な感じがしました。不死の力を持つ伯爵と、戦場で死にかけていた兵士、戦争孤児の少女が互いの孤独と傷をすこしずつ乗り越えていく物語です。悲惨な戦争の真っ只中で、できることは少なく未来へ希望も持てないけれど、できることを探して考える少女が眩しく、戦場で疲弊しきった兵士が束の間の平安を経て再び外へ出ていく、王道の冒険小説のような趣もある、著者の作品にしてはちょっと珍しい感じの小説です。ただ、ファンタジーtpはいえ巻末の参考文献を見ればわかる通り、徹底した時代考証に裏打ちされた描写は生生しく説得力があり、重厚さを失わないのは流石でした。今年は上海を舞台にした歴史SF『破滅の王』の文庫化もあり、新作も連載で執筆中ということで以前よりも話題になってきた気がして嬉しいです。興味がある方は以下もどうぞ

 ☟破滅の王 感想

 

 

第6位 春にして君を離れ

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

春にして君を離れ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

 

 何気なく手に取ったクリスティの作品で、なぜか今年に話題になったのが不思議でした。

今までクリスティといったらポアロとミスマープル、王道の古典ミステリというイメージ(あまり読んだことはなかった)で、この本を読んでびっくりしました。「何も起きないミステリ」でありながら、驚異のどんでん返しの数々、人の心の機微を抉る繊細な心理描写、これが昔の作品とは思えない‟新しさ”を感じました。

遠くの土地へ嫁に行った娘を見舞った帰り道、大雨で汽車が止まってしまった主人公の女性は、足止めをくらう間の暇つぶしに自らの人生をゆっくりと振り返ることにした。順風満帆だけれどあっという間に過ぎていく人生を、自分のことをゆっくり考えることのなかった過去を、考えるにつれてなぜか自分の人生への疑問が湧いてくる。わたしは、本当に幸せだったのか、そして家族は、ずっと幸せだったのだろうか…?旧友に言われた言葉をきっかけに、自分の人生を振りかえると幸せと思っていた過去がどんどん塗り替えられていく、徐々に恐怖に震えるようになる心理描写は読んでいてヒヤッとさせられます。これを読んだ後、自分も主人公のようなことをしていないか、過去を振り返るのが少し怖い、けど考えずにはいられないという二律背反に陥ることでしょう。

 

 

第7位 月と六ペンス

月と六ペンス (新潮文庫)

月と六ペンス (新潮文庫)

 

 ずっと読もうと思っていた名作、月と六ペンス。

ゴーギャンをモデルにしたという狂気的な絵への情熱を描いた小説で、思っていたよりもずっと読みやすく一気読みできました。

 妻子を持つ平凡で目立たない男が、絵を描くことに目覚め元の暮らしも家族もすべて捨てて、命をかけて絵を描くようになる。周囲は男の真意を理解できないが、絵に魅せられ、あるいは男の異様な情熱に当てられ、ひとりふたりと道を踏み外していく。絵を描くこと以外のすべてを削ぎ落していく男は異様に映るけれど、周囲の人々は理解できないと突き放し、忌み嫌うだけでなく、彼に魅かれるものも出て来るのがこの小説の醍醐味です。

 「絵を描く」という根源的な欲求に突き動かされ、それ以外のすべてを捨てた彼の姿は、ある種の強烈な魅力があります。それは、ひとつ前で紹介した「春にして君を離れ」の真逆を行く生き方だからかもしれません。「菜食主義者」の紹介記事でも少し書きましたが、多くの人は「人と同じように、平凡で幸福な」人生にどうしようもないほど憑りつかれている一方、「全てを擲って一つのことに捧げたい、しがらみを投げ捨てたい」という想いも捨てられないジレンマを抱えています。根源的な欲求を追い求めたいという情熱は、それを叶えたくとも実行できない人間にとって毒になる、そんな感想が芽生えました。

 

 

第8位 悪魔が来たりて笛を吹く

悪魔が来りて笛を吹く (角川文庫)

悪魔が来りて笛を吹く (角川文庫)

 

 今年に入ってどハマりしてしまった横溝正史

どの作品を選ぶかかなり迷ったけれど、横溝作品らしさの炸裂した、世にもおぞましく哀しい読後感の本作を選びました。

斜陽の貴族の家で、元子爵が突然謎の失踪を遂げたことをきっかけに次々と起こる殺人事件に金田一耕助が挑む、金田一耕助シリーズのなかでも有名な1作。不気味なフルートの調べを背景に、頽廃の色濃い一族が次々に惨劇に巻き込まれていく。不気味な紋章、秘密を抱える血族、世間を騒がせる毒殺事件との関係…。ページをめくっても先が読めず、惨劇は止まらないままラストへと続き、滅びていく華族の斜陽の夕べを見ているような、頽廃的で仄暗い印象の強い小説でした。もう盛り返すだけの希望もない閉塞感と、代を超えて引き継がれる憎悪の応酬、おどろおどろしい事件なのに、暴いてしまえば遣り切れない、くたびれた悲壮感が露呈してくるギャップが、横溝作品独特の持ち味で、今年はすっかりはまってしまいました。京極夏彦を読んでいるなら、大体好きかもしれないです。

 

 

第9位 パヴァーヌ

パヴァーヌ (ちくま文庫)

パヴァーヌ (ちくま文庫)

 

 読んだけれどよくわからない、難しいけど何だか気になる。とりあえずもう一回読んでみようかと思っている作品です。

サンリオSF文庫で昔出版されていた作品というのは、あまり知らないけれど奇抜で奇天烈な、個性豊かな作品が多いように感じます。今年参加した読書会で紹介されていたアンナ・カヴァンの「氷」という小説もサンリオSF文庫ですが、こちらも奇抜で頭に入りにくい、でも気になる変わったSF小説でした。

パヴァーヌ」は、キリスト教の権威が強く、産業革命が進まなかった欧州、という設定のSF小説です。読む前にそういう風に聞いていたので、歴史改変SFかと思ってワクワクして読んだら、想像の斜め上の展開に終始頭に「?」が浮かび続けました。蒸気機関車が異常に発達し、妖精が跋扈し、謎の「信号手」が活躍し、強権的な教会に反旗を翻す謎の道士とその支持者が泥沼の戦いを続ける…。設定はおおがかりなのに、描かれる舞台は極度に狭く、そのなかで生きる市井の人々の暮らしや感情をメインに描かれるので、読んでいながらあんまり「SF」っぽくないと感じました。この作品が出た当初「傑作だ」と話題になったそうですが、この読み取りにくい小説をすぐ読んで「傑作」と讃えた当時の読者たちはなかなか凄いなと思います。

連作でありながら、相互の繋がりが最初は全く見えてこないため、とりあえず読み続けないと全体像が見えてきません。でも、丹念に読めば見え方が変わってきそうな小説なので、再チャレンジしてみるつもりです。ちょっと腕木信号はやってみたい。

 

 

第10位 物理学者はマルがお好き

物理学者はマルがお好き (ハヤカワ文庫・NF)

物理学者はマルがお好き (ハヤカワ文庫・NF)

 

 ひとつは、小説じゃないものもランクインさせたいなと思って選んだ本。

「あなたの脳のはなし」とどちらにするか迷ったのですが、今回はこちらにしました。とっつきにくい現代数学や物理に興味を持たせる、人の気をひくタイトルが気に入ってこちらにしました。

ハヤカワノンフィクション文庫が好きで、時間をかけて読破していこうと思っているのですが、なかでも好きなのは脳科学、心理学と数学、物理系です。ふだん小説を読んでいるときとは違う頭を使っている感覚があるのでこういう本を偶に読むのは気分転換になります。正直なところ、頭に入った感じはそこまでないのですが、数学や物理の小話がときどき入ってくるので、内容はちょっと難しくても挿入話を楽しむことができます。それにしても、このタイトルはずるいな、と思います(褒めてる)。「何のことだろう?」と思った人はちょっと手に取ってみてはどうでしょうか。このタイトルの意図ははじめの方に出て来るので、ギブアップする前に読めると思います。福岡伸一氏の「生物と無生物の間」が刊行されて以降、科学者の書くエッセイや、一般向けの理数系ノンフィクションが何となく脚光を浴びてきた気がしていて、個人的にはもっと増えてほしい(あるいは復刊してほしい)です。切羽詰まった受験勉強が終わった大人や、勉強に疲れた学生に、学問の面白さを再発見させてくれる本として、ハヤカワノンフィクションみたいな科学系の本は最適だと思います。

 

 

 

以上、2019年のベスト本10選でした。

 

ここには書かなかった本についても、また別記事で載せていきたいと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

来年も、よいお年を。

 

 

天はもう要らない ー白銀の墟 玄の月 感想 ―

十二の国に、十二の王。

徳を天に認められた王と、その王を支える慈悲の生き物、麒麟

 

仁治が約束された世界で、それでも争いは絶えない十二の国の物語の集大成は、

 ‟天はもう必要ない”

なのかもしれません。

 

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

白銀の墟 玄の月 第一巻 十二国記 (新潮文庫)

 

 

十二国記シリーズ長編最終巻『白銀の墟 玄の月』を読了しました。

先月に1,2巻、今月9日の3,4巻が発売された本作は、18年ぶりのシリーズ最終巻とはいえ、驚異的なほどの熱狂で世間に迎えられたのはとても驚きました。

出版業界の近年の低迷から考えても、一部の人しか話題にしないだろうと思っていたので、各地で売り切れ続出となるこの熱狂に、なんだか嬉しくなりました。

 先月の1,2巻は台風直撃で発売日に買えず、でも3,4巻は発売日に手に入れて、土日であっという間に読み終わりましたが、咀嚼に時間がかかって、暫くは感想を言葉にすることができませんでした。読む度に感極まってしまって、3週目くらいからようやく落ち着いて読めました。いけません、歳をとると涙もろくて…

 

※注 以下『白銀の墟 玄の月』等、十二国記既刊のネタバレを含む感想です

 

ここからは新刊のつれづれ感想です。

新刊を読み終えたとき、「???…!?」と言葉にならない怒涛の感動、困惑に襲われました。新刊に臨むため、既刊『魔性の子』『風の海 迷宮の岸』『黄昏の天 暁の天』を読み返していたから、何となく予想していた展開と違い、1,2巻では特に困惑が強かったです。「黄天~」ではじめて天というシステムが具体的にその一部を現したので、続編では天についてもっと核心に迫るなにかが明かされるだろう、今まで圧倒的な存在として君臨していた天と、地上を生きる人びとの対立や緊張、動乱があるかもしれないとちょっと期待してました。天とは慈悲を持って人々へ恵を齎すものでありながら、ときに地上の荒廃を放置し、無慈悲に思えるほど感情を排除した対応をしています。それに歯向かった李斎や、天は無謬でないと言い放つ陽子が描かれた前作のイメージから、「天VS人」もしくは、「王を必要としない民」(既に黄朱という人々もいるけれど…)という構図が見られるかも。もしそうなるならば、物語は大転換を見せるかも、と期待半分不安半分で、妄想しながら新刊を待っていました。

 

けれど、思っていたのと大分違う話の流れに、1,2巻で「…??」と?が乱舞しました。わからないけど、予想通りだ!という読者はかなり少なかったのではないでしょうか。

阿選に叛かれ行方知れずとなった驍宗が、蓬莱から帰還した泰麒と李斎と再会し、民と力を合わせて偽王阿選を討つ、というのが大筋だろうと思っていましたし(実際、『月の影 影の海』や『風の万里 黎明の空』の展開を経験していたため、不安ではあるがまあハッピーエンドにはなるだろうとたかをくくり、1,2巻が衝撃の展開で終わってもそこまで動揺はしませんでした(ただ、本作のタイトルが廃墟の『墟』や黎明や暁という光を一切感じさせない『玄』であることから、もしかしたら偽王を討ち、国は助かるが驍宗は禅譲するかもしれない…とはちょっと思ってました。玉座を開けて民を苦しめた罰として…とかはあり得るかと)。

 

実際に1巻から読み始めてみたら、驍宗の痕跡らしきものもずっと空振りで、かつての麾下も行方知れず、李斎と泰麒は離れ離れに、肝心の泰麒の心の内は読めず、…と思ってた10倍くらい不穏で殺伐としていたのでちょっと驚きました。半分を過ぎて不在の王の在り処が一切わからず、周到に玉座を奪った阿選は表に姿を見せず、やる気を失っているようで、内心は窺えない。そして後半に怒涛の盛り返しが来たと思えば急速に情勢はひっくり返り、怒涛のラストへと繋がってあっけなく阿選は倒される。多くの方が意外と思ったであろうことは、あれだけ周到に驍宗からすべてを奪った阿選と驍宗の直接対決はなく、しかも阿選の敗北が後日談として史書に書かれるだけ、という諸悪の根源に対する扱いの軽さ。何となく肩透かしではないけれど、初読では「あれ?これで終わり??」となる感じが少々ありました。

 

でも、違ったんですね。ラストはあれで完結していたんです。

4巻まで読み終え、ゆっくり読み返していくうちに、本作は紛れもなく十二国記シリーズの集大成である、と感じるようになりました。

十二国記は、王と麒麟の物語ではなく、最初から民の物語でした。民を描くために、俯瞰するように王があった。人とかけ離れた麒麟を通して、人の醜さ、辛さ、可能性が延々と語られていたことが、ようやくわかってきました。

 

それが、端的に現れたのがこのシーンだと思います。

「私が生きてここにある。そして天を信じている。—そうではなく、天がわたしを生かしているのです」

「私という存在は、始まりではなく結果なのだと理解する」

 (「白銀の墟 玄の月」三巻 p298より一部抜粋

 作中の宗教者が過酷な修行の末に悟ったこの言葉。わかるようでわからない、でもなにかと頭に引っかかるこの一言が、十二国記という壮大な物語の核心の一つと言えるのではないでしょうか。

圧倒的な天を信じ、祈り、ひれ伏す。ではなく、「わたしが生きていることは、天があるということなのだ」と言う。

もはやここまで悟れば、天は信じるとか信じないではなく、空気や水のように当たり前ことなのだと。そして、当たり前のもの対しては、もう恐れたり試したり、すがったりする必要はない。わたしが今生きていることは、そのまま天の、天の与える奇跡を証明しているのだというこの悟りは、逆に言えば、「天はもう必要はない」ということではないでしょうか。

 

天を信じるために足掻いたり、天の奇跡(恵み)を得るために祈ったりしなくても、わたしはもう天とともにある。満ち足りている。これは、ある意味で天の支配から解放されたも同然かもしれない。

繰り返しシリーズで示唆されてきた、「天」への反抗は、ここで結実したのだと思います。

 

天に対して過剰に期待をかけない楽俊。

王など選びたくないと拒んだ六太。

王など生まれたときから居なかったから本当はどうでもいいと言う朱晶。

非道な王を追放し、民に望まれて仮朝を開いた月渓。

天を疑い、戴を見捨てるなら玉座は要らないと云い切った陽子。

 

どれも、天の奇跡と恵みひれ伏すというより、軽視して顧みないともいえる言動で。

 

人々の行いを監視し罰や恵みを与え、王が非道に走れば次の徳のある王へと挿げ替え、麒麟を通じて慈悲を施す。王に世襲はなく、政治の腐敗が続きにくい。子は天からお墨付きを貰えなければ授かることのできない、子どもへの虐待の出にくい機構。理想的に見える世界で、だからこそ天の権威は絶対で、逆らうことや軽んじることは許されない。そんな世界から、民が自立する物語。最終巻まで通じて描かれたテーマは、人々の自立なんじゃないかと思います。

 

 麒麟の本性にどこまでも逆らい、凄まじい活躍を見せた泰麒の成長が本作の大きな見所の一つでしたが、麒麟が民意の具現ということを考えると、戴の民が天の支配に逆らった話とも読めます。

発端は李斎の出奔で、諸外国が一致して他国の救済をするなど、元々天の想定にない事態を引き起こし、「自ら正されるのを待て」といい麒麟と王が倒れることが正道と言いのけた天に言い返して泰麒を取り戻した戴の民が、見捨てられた祖国を自分たちの力で取り戻していく、そういう物語と思うと、シリーズで張り巡らされた伏線の数々に眩暈がしてきます。

「人は自らを救うしかない、ということなんだ—李斎」

 (「黄昏の岸 暁の天」p390より抜粋)

前作のこの言葉に対する答えが、4巻に及ぶ本作そのものです。

 

天が見放した王と麒麟を、民が自らの手で取り戻した。

奇跡などなくても、希望だけで充分だと泰麒を求めて。

何年も行方不明の王に忠義を立てて耐え忍ぶ麾下と、荒れ果てた廟に鴻慈を捧げる者と、挙兵に備えて武器と備蓄を集めた商人と、亡くなったと思ってなお自分達の食い扶持まで恩人に捧げた家族と、危険を冒して民の救済にあたり続けた道士たち…。民の努力が天の意向を変え、結果を変えることとなる。これは、前作でも示唆されたことでした。

「結局、そういうことでしょう。自身の行為が自身への処遇を決める。それに値するだけの言動を為すことができれば、私のような者でも助けて差し上げたいと思うし、場合によっては天すらも動く。周囲が報いてくれるかどうかは、本人次第です。(後略)」 

 (「黄昏の岸 暁の天」p449より一部抜粋)

 

そして、他作からもう一つ。シンプルだけど心を打つこの一言。

「人が幸せであるのは、その人が恵まれているからではなく、ただその人の心のありようが幸せだからなのです」

(「風の万里 黎明の空」(上)p163より抜粋)

 

苦しいならば、苦しさから抜け出す方法を考える。そして行動する。その言動の結果が報いにつながるかもしれない。そして、いま自分が在ることが全てと悟る。

シリーズで問いかけられ続けた答えが、最終巻で導き出されたと思うと、18年の空白などなかったようで、心から驚嘆します。

 

 

本作が、園糸にはじまり、そして終わるのも感慨深いです。

王が玉座に還るとか、偽王と戦うなど本当はどうでもよくて、ただ自分の足で自分の人生を歩むのだという、そういう民の視点にはじまり終わるのが、如何にもこの作品らしいです。項梁にすがっていた園糸が、ラストのシーンでは寂しさを抱えながらも居場所を見つけ、人生を歩んでいく。項梁が戻ったとしても、もう戻ってこないとしても、それでもきっと歩いていける。派手ではない、でも連綿と続いていく日常を愛おしく思える、それを、嫌みなく過不足なく描き切る、この表現がとてもすきです。

 

語りきれないけれど、きっともっと語りたくなる。

十二国記は、終わりのない物語です。

 

『楽園』はどこにある

先日、吉田修一さんの本「犯罪小説集」が原作の公開中映画、『楽園』を観てきました。

rakuen-movie.jp

(本も買いました)

f:id:zaramechan:20191030202449j:plain

 公式HPから、あらすじを紹介します。

青田に囲まれたY字路で起こった少女失踪事件。12年後─、事件は未解決のまま、再び惨劇が起こった。事件の容疑者として、住民の疑念から追い詰められていく青年・中村豪士に人気、実力を兼ね備える俳優・綾野 剛。本作では主演として、孤独を抱えながら生きる青年を熱演する。
消息を絶った少女と事件直前まで一緒だった親友・湯川 紡に、急成長を遂げる若手注目女優・杉咲 花。罪の意識を背負いながら成長し、豪士と出会って互いの不遇に共感しあっていく。Y字路に続く集落で、村八分になり孤立を深め壊れていく男・田中善次郎に、『64 -ロクヨン-』で圧巻の演技力を見せつけた佐藤浩市。次第に正気は失われ、想像を絶する事件へと発展する。

Y字路から起こった二つの事件、そして容疑者の青年、傷ついた少女、追い込まれる男……三人の運命が繋がるとき、物語は衝撃のラストへと導かれる。彼らが下した決断とは─。
“楽園”を求める私たちに、突き付けられる驚愕の真実とは─。

(上記の映画『楽園』公式サイト(https://rakuen-movie.jp/) INTRODUCTIONより一部抜粋)

 

吉田修一さんの作品と、主演の綾野剛が好きなので観てきました。

以前、同じ原作者と俳優のタッグの映画『怒り』を観ていたので(こちらも傑作です。迫真すぎて観た後数日引きずりましたが…)、今回も楽しみにしてまして、その割になかなか観に行くタイミングがなくようやく行けました。

 

結論から言うと

とても真っ直ぐな映画

です…

 

 つい『怒り』みたいな映画かと先入観を持っていたので、見事にいい意味で裏切られました。『怒り』が刹那だとすると、『楽園』は時間の流れが主軸です。

この映画の魅力は、「寂しさ」の表現が豊かであることに、尽きると思います。

 とにかくこの映画は、時間の流れが人に齎す作用、時の移ろいの表現がすごく印象的でした。黄金色に輝く稲穂、遠くにそびえる美しい山脈、遮るもののない広い空…。美しい情景が場面ごとに朝から夜へ、晴れから雨へ、秋から冬へ様相を変えていくのが頭に焼き付けられます。その景色の美しさと裏腹に、誰かに汚名を被せて安心を得ようとする卑怯さや、ささいなすれ違いから村八分を行う狭量さ、暴力や暴言という、人間の醜さをこれでもかと畳みかけてくるのがつらい。限界集落という言葉と現実が重くのしかかる、行き場のない諦念と怒りが混在し、独特な空気を作り出しているのが、スクリーンから伝わってくるようでした。

 豪士に誘拐犯の罪を着せ、穢れとして祓い落として日常に戻ろうとしますが、戻れない者も存在します。誘拐犯の疑いを寄せられ、追い詰められた豪士の行動は、祭りの荘厳な松明とオーバーラップし、恐ろしい悲劇を誘発します。いない者として扱われ、長い迫害の末に劇的な終焉を見せた豪士は、周囲の人々に波紋のように熾火を残していきます。熾火に当てられ、苦しみをかかえる人物たちのたち演技(描写)が絶妙で、正に心抉られる心境でした。主人公の紡は『戻れない』者の一人で、友人の失踪に責任を感じる鬱屈と、豪士との記憶に苦しみ、悩み続けています。紡が豪士と過ごした短い時間は、映画の中では穏やかな時間なのに物悲しさと儚さを感じて、とても好きなシーンです。「どこへ行っても同じ」という台詞は、どこへ行こうとも、人生はそう簡単に変えられない、この世界には、行くだけで幸せになれる『楽園』などないという諦観が滲み出ていました。ラストシーンで、この台詞に対する返答が出て来るのが心憎い演出です。逃げ場のない、どこにもない楽園を、残された者がどう見つけるのか、ぜひ映画館で確かめてほしいです。

 時間が癒す痛みもあるけれど、決して癒えない痛みもある。この映画は、後者の描き方がとても秀逸です。決して時間は戻らないから、もう二度と確かめることもできないから、時間は解決してくれない。綺麗なだけでも、汚いだけでもいられない長い人生の苦しさが胸に迫ります。

 

 

被害者と加害者、容疑者の入れ替わりが何とも現実的で、純粋な被害者も加害者も居ないということを突きつける。人間の卑怯さと身勝手さをこれでもかと描くのに、一方で儚い尊い美しさを混ぜてくる。残酷な現実とただ穏やかで美しい情景が目まぐるしく入れ替わる。2時間を長いと感じない、凝縮された映画でした。

今年イチ、おすすめです。

 

 

 

菜食主義者ー狂気の美と日常の憎悪

目立った特徴がどこにもない、「平凡でふつうな女」だと思っていた妻は、ある日を境に「知らない女」になってしまった…。

 

これは、Twitterで流れてきた『読んだら体調が悪くなる』という凄い感想を拝見し、俄然読みたくなった本です。実際、読んでみたらどうなるのか、体調が悪くなるほどの繊細な感受性が自分にあるのか微妙だと思いましたが(『熊嵐』『ひかりごけ』を読んだ後熟睡できるぐらいなので)、読んでみて‥‥ちゃんと気分が重くなったのでほっとしました。

 

本作は、突然肉食を厭い菜食主義者となった女性が、周囲に迫害されながら静かに狂っていくという、なかなかショッキングな内容の物語です。本当に狂っているのはだれなのか、何なのか、…。社会の抑圧から逃れることの苦痛と陶酔が淡々とした語り口で描かれており、おぞましさと共に美しさを感じる文章でした。

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)

 

 本作は、3つの短編から成る連作短編集です。

表題の『菜食主義者』からはじまり、2年後の事件を綴った『蒙古斑』、3年後の『木の花火』で終幕となります。簡単にですが、この3編のあらすじを書いておきます。

 

(あらすじ)

菜食主義者

平凡で目立った特徴のないところが何もない普通の女であることを買い、結婚したはずの妻ヨンヘは、ある日突然肉食をしなくなった。夫の目線から描き出される妻は、平凡な女から、得体の知れない見知らぬ女へと変化していく。少しずつ今までの生活から離れて、夫や周囲の人間の目から見て「狂って」いく妻に恐れと嫌悪をにじませていく夫は、物語後半からだんだん傍観者へとなり果てていく。親戚一同が集って食事を摂ることになったその日、事件は起こってしまった。

 

蒙古斑

①の事件から2年ほど経った時間軸。ヨンヘは夫と離婚し、療養を続けながら社会復帰を目指していた。ヨンヘの姉のインへは、ヨンヘを心配して自分の夫に様子を見てやってほしいと持ち掛ける。芸術家であるインへの夫は、義妹であるヨンヘに蒙古斑が残っているという話を妻から聞き、強烈なインスピレーションを得て、ヨンヘに作品のモデルになってほしいと持ち掛けた。義妹の蒙古斑に異常な興味を持ち、葛藤しながらも欲情してしまう彼と、モデルを引き受け恍惚を得るヨンヘは、ついに第2の事件を引き起こしてしまう。

 

木の花火

②から1年後、病院に入院したヨンヘを見舞う人間は、もう姉のインへしかいなくなっていた。狂った次女を蔑み、見捨てた両親や、ヨンヘを見捨てた夫に変わり、インへは一人でヨンヘの世話を続けていく姿を見て、インへは説得を重ねて妹を助けようとするが、ヨンヘはもう姉の言葉も届かなくなっていた。全く効果のない治療や説得に疲れていくインへは、ヨンヘの気持ちに、精神にすこしずつ肉薄していくが…。

 

 

 『ベジタリアン』という言葉は随分前から一般的に使用されており、考え方も世界中で理解されている気になっていましたが、本作を読んでその認識が変わりました。

普段受け入れている気になっている菜食主義(ベジタリアン)は、身近にないから興味がないだけなのかもしれません。もし身近にいたら、奇異の目で見たり、嫌悪を感じることは本当にないのか。そう考えると、自然に衒いなく受け入れることはできるか、不安になってきました。

主人公のヨンヘは、「何の特徴もない平凡な女」として、社会の規範から何ひとつ外れない存在として登場します。しかし、菜食主義をはじめてから、彼女への評価は一変します。菜食主義にはじまり徐々に周囲の人々とは違う行動が表に出始めると、夫を発端として周囲は彼女を好奇の目に見つめ、嫌悪し、『矯正』しようと圧力を強めていきます。当然の権利として肉体関係を強要する夫、肉を無理やり口に突っ込んでまで食べさせようとする父親、漢方薬と偽ってたんぱく質を摂らせようとする母。自分達の「普通」をヨンヘに押し付け、日常からの脱線を許さない3者の行為が、抵抗するヨンヘの獣性を呼び覚ますことになる最初の短編は、読んでいて胸が悪くなるくらいでした。

 

この小説は、1編目だけで充分重たいのに、続く2編で追い打ちをかけてきます。しかし、読むならばぜひ最後まで読んだほうが、この物語を理解できると思います。なぜヨンヘが肉食を拒んだのか、夢で、ヨンヘの言葉で語られる植物のモチーフと菜食の関係は、蒙古斑がなぜ出て来るのか、…。最後まで読むと、ひとつひとつの繋がりが朧気に見えてきます。

菜食主義者」でヨンヘは、胸を拘束する下着を嫌がるる描写があります。最初に読んだときは気が付きませんでしたが、この場面も後への伏線になっていたのだと思います。

胸では何も殺せないから。手も、足も、歯と三寸の舌も、視線さえ何でも殺して害することのできる武器だもの。 

 (「菜食主義者」 p55より抜粋)

この台詞はとても象徴的です。 肉を食べることを嫌がる理由として、ヨンヘが命を奪うことへの嫌悪、自らのために他を害することへの嫌悪があるのでは、と感じました。

2編目の「蒙古斑」は、ヨンヘの臀部に残る蒙古斑を巡る騒動です。彼女の特徴といえば、最初に描かれていたのは平凡、普通だけだったのに、1編目、2編目で強調されているのは、「」と「臀部」。明らかに女性性を意識せざるを得ない部位を特徴的に描写されるのが、なんとも厭な気分になりました。彼女の精神は女性性から離れ、植物のようになることを切望するのに、周囲の目は彼女の女性性に向き、胸をさらけ出す彼女を蔑視し、蒙古斑に欲情するという倒錯が起きてしまいます。社会の中で、性別を否定することが困難であると突きつけられるようで、ちょっと複雑な気分になりました。

ただ、この『蒙古斑』は、彼女の女性性以外にも、もうひとつの暗喩が込められています。 本編中で「太古のもの、進化前のもの、光合成の跡のような」と評される蒙古斑は、ヨンヘの持つ心的イメージである植物とリンクしています。最終章の3編目では、幼子のようになってしまったヨンヘが描かれます。ふくらんだ胸は痩せてなくなり、臀部に蒙古斑が残り、身体的変化に合わせるように、精神も無邪気な子どものようになっていきます。ここへきて、しつこく描かれた「胸」と「蒙古斑」が、子どもへと、命のはじまりへと還っていく暗喩だったのではと気が付きました。なかなか読みにくい作品ですが、各所に散りばめられた暗喩と伏線を探っていくと、まだまだ解釈できると思います。

 

 

そして、ここでやっとタイトルに戻ります(前置きが長すぎました)。

狂気の美(ヨンヘ)と日常の憎悪(インへ)について。

この記事で一番書きたかったことは、ヨンヘの姉、インへの感情の揺らぎです。

ヨンヘの狂気を恐れ、或いは厭い、引き離されたことで、ヨンヘの周囲には最後は姉以外いなくなります。最初はヨンヘを全く理解できていなかった姉が、2人で過ごすうちにヨンヘの感情にシンクロしていき、そして離れていく機微がとても物悲しく、惹き込まれました。

 ヨンヘは2編目のはじめ、夫と離婚して就職活動をし、日常へ戻るような素振りを見せていましたが、3編目に入るともう戻る兆しはなく、一切の食事を拒むようになりました。姉はそんな妹を心配していましたが、だんだん恨み、憎悪を見せるようにもなります。

しかしインへが哀しいのは、ヨンヘに共感する故の憎悪であるからです。

泥沼のような人生を自分に残しておきながら、死(自由)へ向かう妹への嫉妬を覚え、

子どもさえいなければ、自分だって日常から離れてしまっただろうと思う。

インへは妹を『理解できない狂人』と思うのではなく、一種の羨望と嫉妬から憎悪を向けている場面、読んでいて一番共感できるところでした。

 

狂気にしか見えない行動をするヨンヘは、死ぬ寸前まで追い込まれ、痛々しい描写が続きます。しかし、「蒙古斑」で描かれる彼女の肉体や、「木の花火」で幼子のように笑うヨンヘはうつくしく描かれます。日常にいては決して手に入らない、自由な精神から齎される美は、きっと見たものを動揺させ、嫉妬させるのだと、読みながら感じました。

社会で生きていく以上、がんじがらめのルールや暗黙の了解に従い、自分の望みを抑え込んで周囲に合わせ続けなければ、或いはそれを自らの意思と思い込まなければ、居場所はなくなってしまいます。けれど狂ってしまえば、周囲からの迫害に負けなければ、精神の自由というこの上ない幸福を手に入れることができるかもしれません。

本作で描かれたのは凄絶な自由への渇望と、それを許さない社会、日常の圧力なのだと思います。規律を乱す異分子を排除しなければ社会の秩序は保たれないから、異分子を排斥しようとするのは、自然な流れでしょう。しかし、個人の幸福、自由を求める気持ちはどの人間からもなくなりはしない。だからこそ、抜け駆けで『自由』になろうとする狂人に、日常に住む人間(わたしたち)は嫉妬し、憎悪してやまないのではないでしょうか。