【100記事達成記念告知】こんなブログを書いてます
ついに、目標の100記事目に突入しました。
ブログをはじめたときに「とりあえず100記事書こう!」と意気込んだものの遅々として進まず、もう駄目かと思いながら気が付いたらこの記事を書いていました。
区切りがいいので、初心にかえってブログの紹介をします。
「9割本の感想、1割その他(ピアノ系すこし)、時々(マンガなど)読み解きをしています」
筆者のことはプロフィールに書いてあるとおりです。小学生の頃、将来の夢は『隠居』と書いて今もそうなりたいと願う20代会社員です。
シミルボン等にたまに寄稿することもありますが、基本的にこのブログで読んだ本やコンサートのことを書いています。Twitterのほうもよければお願いします。
#はてなブログ#百鬼夜行シリーズ#読書好きと繋がりたい
— ざらめ@読書記録 (@tnst0330) 2019年1月18日
姑獲鳥の夏の読み解きに挑戦しました。十二国記シリーズの新刊発表があったので、鵺の碑も今年こそ刊行かと期待しています。
【百鬼夜行シリーズを読み解く】①‟名づ…https://t.co/FFkJ7In2Aa
読書の趣味は写真やTwitterを見て頂ければお察しかと思いますが、民俗学、妖怪なんかが最近は多いです。日本や中国の民族学系の話や歴史もの、ドラマや映像では射鵰英雄伝のような武侠ものも好きです。武侠ファンの方おられないでしょうか。
読書遍歴は小学生の頃の児童書からはじまり(ダレン・シャンとか…)、高学年からグインサーガを読み始めて少しおかしくなりました。中学生のときはSFにハマりはじめ、レイ・ブラッドベリやハインライン、筒井康隆などを読む傍ら、図書館で出会った彩雲国物語など少女小説に唐突にハマり、宮部みゆきの『火車』や奥田英朗の『最悪』といった転落小説に目覚め、受験勉強そっちのけで読んでいました。高校に入ってからは悪いことに、図書室の司書の方と誼を結び、学校の図書費を乱用して自分が欲しい本を仕入れてもらうばかりか、新刊の単行本を発売日に入手するような生活を送っていました。今度はミステリにハマり、シャーロック・ホームズなどの古典をはじめ、当時とても流行っていた伊坂幸太郎まで読みふけり、ミステリ漬けの生活を送っていました。その他は歴史小説なんかもこの頃から読み始めました(司馬遼太郎、飯嶋和一、陳舜臣など)。多分そのせいだと思いますが、受験に見事失敗し一浪しました。学生の方は読み過ぎにお気を付けください。図書館で勉強は危険です。勉強できません。
このように数年ごと(もしくは1年未満でも)読む本の趣味が変遷していくので、小説やエッセイ、ノンフィクションなど、このブログで紹介する本達はかなり雑多です。
さて、ここで軽く今まで書いた記事をご紹介します。まずはメインのこちら。
①おすすめ本紹介(連載)
著者の五十音順に、わたしのおすすめ本を紹介しています。
1つ目の記事はあ行から秋梨惟喬氏。いまは46記事目で、さ行まで進んでシーラッハ氏まできました。わ行までの道のりは遠そうです。日本人作家も外国人作家も含んでいます。基本的に小説を紹介していますが、たまにエッセイやノンフィクションも含みます。ブログ記事右横の『読書』というカテゴリは9割がたこの連載です。
②ピアノ系
ピアノユニットのレ・フレールとクラシックの辻井伸行さんが好きで、たまに記事も書いてます。音楽の言語化は難しいですけど、両方ともすごく好きなピアニストなので、興味のある方はぜひ聴いてみてください。
本当は生で聴くのが一番ですが、CDだと好きなタイミングで聴けるのでどちらも良いと思います。辻井さんのコンサートなんかはいつもチケット争奪戦が凄まじいので、聴きに行きたい人は発売日に待機したほうがいいですよ。レ・フレールはファンクラブにさえ入ればかなり前列の席が取れるので、本格的にコンサートに行きたい方は加入をおすすめします。レ・フレールのコンサートは0歳から入場できるので、子連れの方でも気軽にピアノ鑑賞を楽しめるのがポイントです。
③マンガ読み解き系
これら以外にも普通に好きなマンガについて書きますが、上の二つはちょっと気合を入れて書いたので載せておきました。ゴールデンカムイにハマってからTwitterで色々な方の考察を読んで感情が爆発し、ブログにも侵食してきたところです。ちょっと更新が遅れてますが、きっと気が向いたら書きます。記事はともかく紹介してるマンガたちはとっても好きです。よかったら読んでみてください。カテゴリ『マンガ』からどうぞ。
④小説読み解き系(NEW!)
ずっと気になっていた百鬼夜行シリーズの読み解きを連載にしました。テーマを決めてシリーズを1作ずつ読み解きしていく予定です(3作目を執筆中です)。京極夏彦氏の作品は、理路整然とした文章なのになぜかもやもやが残る作品が多いので、自分なりの頭の整理として書いています。評論や考察など全くの素人なので、ただ「こういう読み方るんだなあ」と生暖かい目で読んでいただければ幸いです。連載は七転八倒、悪戦苦闘しながら書いているのでたぶん更新が遅いです。これが書き終わるまでにシリーズが完結するかもしれない、と半分願掛けの気持ちもあります。
マンガの方で読み解きをしたのがきっかけですが、小説の読み解きもなかなか楽しいので、時々書くかもしれません(十二国記とか…)。
⑤その他の日常系
はてなブログのお題や、読書やピアノに関係のない単発の記事をこちらに分類しています。「○○へ行ってきました」系の記事なども入っています。
好きな場所やドラマ、映画、文房具などに言及したり、ニュースを観て思うことだったりをつらつらと書いています。カテゴリ『その他の日常』に放り込んでいます。
ブログのメインは①~④のような記事です。
他にも、お題や旅行など、単発で書いた記事を⑤に入れています。今後これ以外にも、実話などエッセイ風のものも書こうかなあと思案しているので、色々書くと思います(保育士免許奮闘録とか、転職連敗戦記とか、北海道羆遭遇事件とか。備忘録として残すかもしれません)。
雑多なブログですが、ひとつでも気に入って頂ける記事があれば幸いです。
最後までお読みいただきありがとうございました。
101記事目からもどうぞよろしくお願い致します。
【哲学×ミステリ】慈雨ように優しく、針のように鋭く心を打つ新感覚コミック
最近読んだマンガがものすごく好みだったので記事を書きます。
この記事は読まなくていいですが、とにかく多くの人に読んでほしいマンガです。
現在4巻まで刊行しているマンガで、マンガながら緻密なミステリと登場人物の存在感が圧倒的な作品です。
調べてみたら「2018年3月 このマンガがすごい!女編」第1位を獲得した作品だったそうです。気づくのが遅かったですが、それだけ多くの人がいま注目している作品のようで納得でした。
<あらすじ>
独り暮らしの大学生、久能整(くのうととのう)は、部屋でカレーを作っていたとき同級生殺害の嫌疑をかけられ、いきなり警察に連行されます。自分は全く身に覚えのない出来事なのに、整の指紋がついた凶器が見つかり、どんどん犯人扱いをされるようになっていきます。整は類まれな洞察力と周囲を煙に巻く『話』によって真犯人を暴き出すことになるが…。
面白いのがこの主人公、久能整。不思議な名前で、カレーに弱く天パを気にして直毛に憧れる大学生ですが、彼の一番の特徴はとにかく『語る』ことです。
警察に連行されても慌てず騒がず、むしろ取り調べをする警官たちを観察して淡々と語り続ける主人公。最初のほうはこの不敵な主人公自身がまったく掴めずドキドキしながら読み進めました。
何もしてませんから
何もしてない僕を冤罪に落とし込むほど 警察はバカじゃないと思ってますから
それともバカなんですか
(「ミステリと言う勿れ」1巻p13~14 整が警察で事情聴取を受けているときの言葉)
すごくいいなと思ったのが、この主人公の淡々としているだけじゃない優しさです。ときに鋭い舌鋒で人を追い詰めるのに、多くの場合人を癒すように働く不思議な話術(独自の哲学を持つ整の話術はちょっとヤン・ウェンリーっぽいと思いました)。関わった人達はその言葉に救われ、少し前を向いて歩きだします。
この主人公独自の哲学がまたシビれます。現代社会のどうにもならない問題とか、ちょっとした不満や不安、罪や禁忌の問題など幅広い考察を「僕は常々思ってて」から語りだすんですが、その内容が尋常ではありません。柔軟な思考と鋭い指摘は、現代人すべてに共有したいくらい示唆に富んだ内容でした。
メジャーリーガーの監督は時々試合を休むんですよ 奥さんの出産は勿論 お子さんの入学式や卒業式 家族のイベントで休むんです
彼らは立ち会いたいんです 一生に一度の子供の成長の記念日に 行かずにいられるかって感じで 行きたくて行くんです
でも その中継をしてる日本側のアナウンサーや解説者が それについてなんて言うかというと
「…ああ 奥さんが怖いんでしょうねえ…」
(中略)
メジャーリーガーは子供の成長に立ち会うことを父親の権利だと思い 日本側の解説者たちは義務だと思ってる そこには天と地ほどの差があるんですよ
(「ミステリと言う勿れ」1巻p92~93より一部抜粋)
物語のネタバレになってはいけないのでこれ以上引用はしませんが、本書中にはもっと刺激的で鋭い考察が満載なので、ぜひ確かめてみてください。以下で1巻の一部試し読みができるようです。期間限定かもしれないのでそこはご注意ください。
1巻だけ試しに読んでみるのもいいと思います(きっとすぐに4巻まで買ってしまうと思いますが…)。
文字はマンガにしては多いけれど、コマ割りや人物の繊細な表情の描写が効果的で、読みにくさを感じさせないのも好印象です。
一応少女マンガですがその特徴は絵柄くらいで、かなり硬派なミステリ系コミックです。文字数が多く、その大半がこの主人公整の語りで、動きの少ないマンガなのにスリルとスピード感を感じる見事な構成です。筆者のあとがきに「狭い舞台上の演劇をイメージした」というようなコメントがありましたがまさにそういう感じで、動きを抑えた分人物ひとりひとりの描写が際立っていて余韻を感じる話ばかりでした。
今年読んだマンガで、はやくもイチオシになりそうな素晴らしいマンガです。ぜひお試しを。
【百鬼夜行シリーズを読み解く】②偶像とシンクロニシティ
京極夏彦の百鬼夜行シリーズについて1作品ずつ語っていく記事第2弾です。
シリーズ2作目『魍魎の匣』に挑戦してみました。
シリーズの中でも評価の高い本作は、ミステリとしても1作目より読ませるところが多く面白いです(猟奇的な描写が苦手な方にはちょっと不向きですが…)。また、犯罪や宗教、心霊や超能力に関する鋭い考察や、1作目より磨きをかけてきた民俗学関連の蘊蓄、ぞくっとするような人物描写も冴えています。今回もテーマを軸に作品の読み解きをしていきます。大いにネタバレを含むので、未読の方はご注意ください。
読み解きのテーマは『偶像とシンクロニシティ』です。このテーマに沿って以下のトピックごとに進めます。
①登場人物の相似形
②偶像崇拝と奇跡
③まとめー日常への回帰
①登場人物の相似形
『魍魎の匣』は登場人物の輪郭が際立っていたのが印象的です。箱に魅入られた寺田兵衛、科学にのめり込んだ美馬坂幸四郎、隙間を極度に嫌う久保竣公、…。どのキャラクターもバックボーンから嗜好、行動原理まで精密に描写されていて圧倒されました。
特に特徴的なのが、登場人物たちの類似性です。柚木陽子と楠本頼子については作中でも触れられています。
作中では、この二人以外にも類似性を持つ人物たちが描写されています。それが
・柚木陽子と楠本頼子
・寺田兵衛と美馬坂幸四郎
の組み合わせです。上から順番に解説していきます。
・柚木陽子と楠本頼子
本編中で述べられた二人の両面性の相似形とは、柚木加菜子を中心としたアンビバレンスのことだと思います。陽子は、雨宮によって誘拐された加菜子の奪還を願いながら、加菜子発見によって狂言誘拐と遺産詐取が露見することを恐れていました。頼子は自分の来世である加菜子が亡くなれば自分は殺人者としての咎を負うと恐れる一方、回復して自身の罪を指弾されることを恐れます。引用した文は、加菜子が助かってほしい、しかし助かれば自分(たち)の罪が露見するという二人の苦悩が嘘の証言を生み出し事件を攪乱したということだと思います。ですが、この二人の類似性はここだけに留まりません。
最大の特徴は『母との関係』にあります。病気で衰えても父に愛された母を恨み、母の名を芸名で名乗ってなり代わりたいと願った陽子。老いて醜くなる母を憎悪し、代わりに加菜子を崇拝し愛した頼子。母(頼子の場合は加菜子も含む)を憎み、それでいてなり代わりたい程憧れたという矛盾する心が、二人はとても似通っています。
この二人はもっとわかりやすいです。幼少時から欠落感を抱え、隙間を極度に嫌う久保竣公は、作中でもメインの登場人物です。「テストなどは満点がよい」「何事も順番どおりに行いたい」と望む排他的な完璧主義者の久保と、理屈を嫌い粗野な印象の木場刑事は一見あまり似ていません。ですが、この二人は表裏のような描写がいくつか見受けられます。
隙間が空いてゐるくらゐなら、いつそ何も入つてゐない方が良い。容物と云うものは中にものが入つてこその容物で、十分有効に活用するためにはみっしりと充實させることが必要である。
さう云うことばかりが氣になる。
自分は中身の入っていない菓子の箱のようなものだー。
木場はそう思う。箱は丈夫で、外からの刺激には大層頑丈だ。表面には名前だの宣伝文句だのが世間に向けてずらずらと綺麗に印刷してある。しかし、ここぞ、という時に蓋を開けてみれば空である。箱は中身あっての箱であり、空箱の存在理由と云うのが何処にあるのか木場には善くわからない。
上の引用は久保、下が木場です。箱の中身を充実させることに固執する久保と、中身はなく外側ばかりが頑強と思い込む木場は反対のように見えて結構似ています。どちらも箱の『中身』が充実しないことに不安や怒り、据わりの悪さを感じています。そして久保は加菜子に、木場は陽子に出会うことでその運命を大きく変えていくことになります。この先は②で書いていきます。
・寺田兵衛と美馬坂幸四郎
読み返してみて、この二人も相似形をもつと気が付きました。二人の境遇は、妻が病にかかり癒すことができなかったこと、妻子を見捨てて一人仕事に没頭したことなどよく似ています。妻子との接し方がわからず箱をつくる仕事に異様に執着した兵衛と、妻の病気を治す手立てを探すため研究に没頭した幸四郎は、仕事でも知らないうちに関わっていました(※箱館の精密機械箱のことです)。長い間妻子と音信不通になっていた彼らは子どもとの再会によって転機を迎えます。久保に支配され教祖という新しい人生を歩まされた兵衛と、陽子を支配して研究を完成させようとした幸四郎。そして最期は幸四郎(親)が久保(子)に殺され、久保(子)が陽子(親)に殺されるというショッキングな顛末を迎えます。この二人の最期が対称になっていたことにゾクッとしました。支配していた者が消え、兵衛と陽子は日常へ戻っていくことになります。これについては③で語ります。
次は②に移ります。
②偶像崇拝と奇跡
まず、テーマに掲げたシンクロニシティとは、心理学の巨匠ユングが提唱した原理で日本語では共時性(原理)ともいいます。『意味のある偶然の一致を説明する非因果的連関の原理』などと説明されます。『ある二つの出来事が全く偶然に符号する』ような状況を説明する原理で、「火事になる夢を見た翌日に隣家が火事になった」や「旧友の噂をしていたらその友人が訪ねてきた」など、神様のいたずらとも呼べるような偶然の一致には偶然を超えたなにかがある、というような説明がよくなされます(※専門家ではないので確実な知識ではないことをご注意ください)。
作中では、シンクロニシティ、或いは神の啓示について何度も示唆されています。本記事ではこのシンクロニシティが起こった遠因に『偶像崇拝』があったのではないかと類推します。
・偶像崇拝の対象
本記事で意味する偶像は『柚木加菜子』です。彼女は作中で常に他者の視点で描かれており、読者にも彼女の心の内は読めません。まさに加菜子は偶像として、内実を悟らせないように描かれたのだと思います。
頼子は彼女に強い憧れを持ち、女神のように思っていました。加菜子のかけがえのない存在(前世や来世)になってから想いは強まり、加菜子が『消え』てからは彼女の代わりのように振る舞いはじめます。
また、彼女に強い愛着を持ち人生を狂わせたのが久保竣公です。彼女と出会い、匣を満たす理想の存在を見つけた久保は、彼女のような娘が欲しくなり凶行に及びます。
彼女に魅入られ魔の領域へ踏み出したのは、雨宮も同じです。頼子、久保、雨宮はそれぞれ魍魎や奇跡を目の当たりにし、境界の向こう側の世界を覗くことになります。
・奇跡(シンクロニシティ)
シンクロニシティによって、神の啓示を受けたのは頼子と久保です。
頼子は加菜子の死や回復を恐れ戦々兢々として暮らしていたところ、『加菜子消失事件』が起こり、奇跡を目の当たりにします。普通だったら消失や誘拐など、さらに不安を煽る状況です。しかし、頼子は関口の小説を読み「屍解仙」や「羽化登仙」など浮世離れした話に精通していました。その上、加菜子本人から「月の光を浴びて生きるのを止める」等、この状況を示唆するような思わせぶりな発言を聴いていました。この符号によって、頼子は加菜子の消失を奇跡と信じ込み、名実ともに『加菜子の生まれ変わり』として人生を歩むことになります。
久保は、幼少時から抱えていた心の隙間を埋める『奇跡』を加菜子に見ます。知識を詰め込んでも、箱に囲まれて暮らしても、父に訴えても埋まらなかった欠落感を匣に入った加菜子に見出します。久保が元々持っていた資質である箱への執着と、御筥様という箱に神性を付加した存在があったからこそ、加菜子を見て『奇跡』と感じたのだと思います。
犯罪は動機や生い立ちに全て原因があるわけでない。『その瞬間』が訪れたことで起こってしまうのだという京極堂の主張は作中で何度も強調されています。
非常識な扉を開ける契機があって、それを実行しても良さそうな雰囲気を持った御筥様なんて云う特異な環境が出来上がって、初めて犯罪は成立したんだ。犯罪は、社会条件と環境条件と、そして通り物みたいな狂おしい瞬間(ひととき)の心の振幅で成立するんだよ。久保は偶遇それと出合ってしまったのさ。それだけだ
なぜ『その瞬間』が彼らに起きたのか。頼子や久保の内面描写、屍解仙や御筥様という巧みな伏線によって『その瞬間』に至る経緯が描き切ってあることに気づき、記事を書きながら戦慄しました。小説がここまで周到に書かれていることにただ驚きです…。
③まとめー日常への回帰
物語は終盤にかけて、京極堂の『憑き物落とし』を中心に急激に幕引きに向かいます。『姑獲鳥の夏』でもそうでしたが、シリーズでは日常への回帰を持って終幕となります。最後と冒頭が繋がり、円環のように閉じて日常へと戻ってくる描写は、小説の技巧というだけでなく作者の意図があるように思います。非日常的な事件はすべて終わり、特異な体験をした関口たちは徐々に日常生活に戻っていきます。彼岸へと去ってしまった者たちに思いを馳せ、悼むことで彼らと自分たちの境界を区切って、異常な時間は終わりを告げます。物語の最後が穏やかな日常になることで、境界に魅せられていた読者も日常へと回帰します。
ただ、彼岸から戻ってこない者もいます。事件で亡くなった者たちと雨宮です。
最後に加菜子を攫っていったのが雨宮というのがずっと気になっていました。雨宮は加菜子と同様、モノローグが描かれていません。何を考えていたのか、どう生きたのかも定かでない彼によって偶像(加菜子)は彼岸へと連れ去られてしまいます。ただ一人、生きながら彼岸へ到達した彼にモノローグが無いのは意図的な描写だと思います。彼岸に行った者は此岸の理屈では理解ができない。だから彼には内面の描写がなかったのでしょう。
境界に触れ、シンクロニシティを味わい、惑わされる者は作中にたくさん存在します。しかし真実、生きながら『彼岸』に到達したまま戻ってこなかった者は雨宮だけでした。これは彼岸に行くことは難しく、アクシデントで踏み越えてしまっても、日常に戻ってきてしまうものだという作者の主張なのではないでしょうか。
「雨宮は、今も幸せなんだろうか」
「それはそうだろうよ。幸せになることは簡単なことなんだ」
京極堂が遠くを見た。
「人を辞めてしまえばいいのさ」
境界は日常のすぐそばにあり人を惑わすけれど、境界を越えて『幸せ』に到達することはほとんどない。だから、関口も読者であるわたしたちも、境界を踏み越えた雨宮にどこか憧憬を抱くのでしょう。
なんだか酷く、彼が羨ましくなってしまった、と。
・参考文献
【五十音順・おすすめ小説紹介】46冊目 フェルディナント・フォン・シーラッハ
おすすめ本紹介、46回目です。
この記事では著者の五十音順に、わたしのおすすめ本を紹介しています。
今回はフェルディナント・フォン・シーラッハ氏から2冊。
著者は刑事事件専門の弁護士として現在も活動しながら作家としても執筆を続けている異色の作家です。日本では、2012年に本屋大賞「翻訳小説部門」第一位に選出された『犯罪』をはじめ、最近も長編『禁忌』が文庫で刊行されたばかりで、じわじわと人気が出てきつつあると感じます。著書の多くは、著者の弁護士としての豊富な経験に裏打ちされた犯罪小説が多く、フィクションながら臨場感に満ちた迫力を感じる作品が多く魅力的です。
今回紹介する『犯罪』は、タイトルの通り様々な犯罪を犯した人たちが主人公の短編集です。長年連れ添った妻を殺害した夫、重体の弟を介護の末殺した姉、‟正当防衛”で相手を殺した男、…。短いストーリーのなかにそれぞれの人生が凝縮して描かれており、彼らが『犯罪者』としてずっと生きていた訳ではない一人の人間であることが感じられます。静謐で簡潔な文体が語られない‟行間”を引き立たせ、人間の複雑さを醸し出しているのが見事でした。読み終わった後、序の言葉が胸に澱のように沈みました。
私の話に出てくるのは、人殺しや麻薬密売人や銀行強盗や娼婦です。それぞれにそれぞれがたどってきた物語があります。しかしそれは私たちの物語と大した違いはありません。私たちは生涯、薄氷の上で踊っているのです。氷の下は冷たく、ひとたび落ちれば、すぐに死んでしまいます。氷は多くの人を持ちこたえられず、割れてしまいます。私が関心を持っているのはその瞬間です。幸運に恵まれれば、なにも起こらないでしょう。幸運に恵まれさえすれば。
(東京創元社 フェルディナント・フォン・シーラッハ著 「犯罪」p12より抜粋)
2冊目はこちら。ある犯罪で捕らえられた男をめぐる裁判を描いた長編小説です。
本書の根幹をなす‟ある事実”の披歴がきっかけで、ドイツ連邦法務省が省内に調査委員会を立ち上げたという「小説が政治を動かした」驚異の逸話があります。
しかし、センセーショナルな逸話を抜きにしても『犯罪』や『罪悪』では描かれなかった手に汗握る法廷劇、弁護士や遺族の葛藤など、短編とは違った味わいの作品に仕上がっていて面白かったです。200頁に満たない、長編にしては短い作品ですが、主人公の弁護士とともに何日も過ごしたかのような濃密な読書ができました。
法廷劇の面白さはバリンジャーの『歯と爪』を思い出しました(こちらもある‟仕掛け”で有名な作品ですが、本編の法廷劇は機智に富んでどちらに転ぶかわからない論戦が楽しめます)。
そっけないくらいに削ぎ落された文体は、登場人物たちの心の機微をより鮮やかに浮かび上がらせます。簡単には知ることのできない‟人の心”を、描かないことで描く緻密な文章がとても心に残りました。
【ペレーヴィンを読み解く】内面世界で見る夢は、外界を超越するか
昨年読書会で出会い、瞬く間にのめりこみました。
昨年参加した読書会で出会い、貸していただいた本です。
現代ロシア文学という全く馴染みのない分野でしたが、最近では全然読むことが無かった哲学的で不思議な文体に夢中になり、無謀にも読み解きに挑戦してみました。
こちらがその本です。
夢と現実、仮想現実と現実世界の入り混じる摩訶不思議な読書体験でした。
ピリリと効く風刺とクスッと笑えるユーモアを交えながら、個人の精神世界と自己意識の実存を問う怪作です。
~あらすじ~
ロシア革命から1年経つ1918年のモスクワで、ピヨートル・プストタ(空虚)という奇妙な名を持つ青年は旧友のグリゴーリイ・フォン・エルネンと再会した。詩人であるピヨートルは詩の1節を危険思想と断じられ、ソビエト政府の設置した秘密警察組織(チェーカー)に追われ、ペテルブルクからモスクワまで逃れてきていた。その顛末をフォン・エルネンに話すが、既にチェーカーの活動員となっていたエルネンはピヨートルを拘束しようとする。もみ合いの末エルネンを殺害してしまったピヨートルは、エルネンを迎えに来た二人の活動員と行動を共にし、文学キャバレーで暴力と革命の演説に参加した。ピヨートルはその後車に乗るなり眠ってしまい、目を覚ますとそこは精神病院の中であった。
ここまでが導入部で、物語はこの青年ピヨートルを起点に展開していきます。
精神病院で目覚めたピヨートルは、自分が患者として扱われていることを知らされます。同じ病棟には3人の患者(マリア、セルジューク、ヴォロジン)と医師チムール・チムーロヴィチがおり、集団で治療を行う旨を伝えられます。3人はそれぞれの内包する幻想を共有し合うことでカタルシスを得ることができ、病状が回復すると医師から伝えられ、互いの内面世界を体験することになります。
革命ロシアの下で英雄チャパーエフに従う自分と、精神病棟で他の患者と共に幻想を共有して治療を受ける自分。どちらが夢でどちらが本物なのか。交互に現れる『現実(或いは夢)』は次第に混ざり合い、夢と現実の境がわからなくなっていく展開の最後に待つものは‥‥‥。
この作品はたくさんのテーマを内包していますが、以下のテーマで読み解きをしていきます。
‟急激に生まれ変わる社会で起きた、内面世界と外界の偶発的逆転”
ロシア革命、ソビエト政府、冷戦の終結、…。作中に存在する時間軸は激動の時代です。ピヨートルが夢で経験したのはロシア革命直後の社会であり、マリアが経験したのは1993年のモスクワ騒乱事件で砲撃された最高会議ビル砲撃事件である可能性が作中で示唆されています。時間軸の混ざる本作では細かな整合性は問いにくいですが、ロシア革命直後や、ソ連崩壊(1991年)直後の時期に焦点が当てられているところが気になります。どちらもそれまで続いてきた体制が崩れ、社会が急激に変化して先が見通せない不安定な状況にある時期でした。
共同幻想が揺らぎ、根底から覆される激動の時代に個人の精神はどのように変化しうるのか。以下の①~③でひとつずつ考えていきます。
①社会と共通認識
社会に生きるわたしたちは夥しい量の社会通念、いわゆる‟常識”という認識を持っています。洋服を着るのも、朝起きて働いたり学校に行くのも、お金をやり取りして物やサービスを受けるのも、税金を払うのも、毎日‟当たり前”に行っています。わかりやすいのは法律ですが、それ以外にもたくさんのマナーや暗黙の了解、常識があり、それを個人個人が了解することで多人数の社会生活が成り立ちます。
本書のなかでは『共同的ヴィジュアライゼーション』という言葉で表されています。
われわれが住む世界もたんに、人々が生まれたときからそう見えるように教え込まれてきたものの共同的ヴィジュアライゼーションにすぎない。実際これは、ひとつの世代から次の世代へ引き継がれる唯一のものだ。このステップや草花、あるいは夏の夕暮れも、かなりの人数で眺めれば、みな、ともに同じものを見ることができる。だが、さきにそれがどのようなものであるかが示唆されていなければ、われわれは思い思いにみずからの心の反映を見ることになる。
(「チャパーエフと空虚」群像社 p313より抜粋)
花とはなにか、空とはなにか、家とは、身分とは、社会とは、…。世界に存在する色々なものがどのような意味を持つのか、わたしたちは生まれてから教育を受けることで徐々に知ることになります。
社会の体制が大きく変わり、今まで無邪気に信じていた考えが一気に覆ったとき、或いは特殊な状況に身を置き、既存の社会生活とかけ離れてしまったとき、共同幻想もまた変化するでしょう。戦争や革命によって‟常識”がいとも簡単に変わってしまうことは歴史上何度も証明されていますし、変化の渦中にいる人間の内面世界もまた変わると考えられます。
しかし、生まれてからずっと社会のなかで教育を受け、他者に囲まれて生活を続ける人々がそう簡単に精神を病んだり発狂したりする訳ではありません。多くの場合、少しずつ変化する現実に適応し順応できます。本書のなかではコカイン等のドラッグ、精神病院で使われる薬、事故による心的外傷、傷への恐怖など他の要因が示唆されています。他者の内面世界を共有するという異常な体験と閉鎖的空間に加えてこのような要因が加わることで、共同的ヴィジュアライゼーション(共同幻想)を失い夢(内面世界)へ没入するという特異な状況が生まれたと考えられます。
②胡蝶の夢
本書のなかでは東洋の思想、特に『胡蝶の夢』に代表される老荘思想が示唆されています。荘子が夢の中で胡蝶になり、夢から覚めたあと自分は胡蝶になる夢を見ていたのか、それとも胡蝶が人間の夢を見ているのかわからなくなったという故事が『胡蝶の夢』です。大きな視点に立てば、あらゆるものに区別がなく、全ては同一であるという『万物斉同』という思想もあります。
作中でピヨートルは、革命時のロシアにいる自分が現実で、精神病院にいる自分は夢だと認識しています。そしてどちらの世界でももう片方の世界を夢として『記録』するように言われます。胡蝶の夢の故事を当てはめると、どちらが夢で現実なのか判断がつかなくなっている状況だと考えられますが、作中ではもう一歩進めて考えているように思います。
ピヨートルとチャパーエフの会話を一部引用すると
「仮におまえの目を、あの中国人と同じやり方で覚ましてやったとしよう」目を閉じたまま、チャパーエフが言った。「するとおまえはある夢から、ただほかの夢へと落ち込むだけだ。これまでおまえはそうやって延々さまよいつづけてきた。だがおまえが周囲で起こるすべてのことを完全に理解したなら、夢はただの夢になる。そうすればもう、どんな夢を見ようとも関係ない。そこから目覚めたときには本当の覚醒を経験するだろう、それも永遠の覚醒を。もっとも、そうしたければの話だが」
「どうして僕のまわりで起きていることがすべて夢だと言えるんです?」
「それはな、ピヨートル、たんにそれ以外のことなど起こりようがないからさ」
(「チャパーエフと空虚」群像社 p278より抜粋)
夢と現実の境が曖昧になるのではなく、すべてがただの夢となり、本当の覚醒を経験する。本当の覚醒とは何なのでしょうか。それを③で考えていきます。
③内的世界の拡大
物語の終盤で、ピヨートルは革命の夢のなかでユンゲルン男爵やチャパーエフと哲学的な問答を繰り返します。この辺りから革命の夢(内面世界)が次第に変容しているところが気になります。
序盤では、マリアの夢を共有した後眠りにつき、革命の世界へと意識が移ります。戻ったときは精神病院での記憶を失くし3人と新しく出会うことになります。そこで3人と共にアート・セラピーを受け、アリストテレスの胸像をぶつけられて昏倒し、ピヨートルは再度夢へ落ちていきます。
中盤は革命の夢のなかで眠りにつき、間断なくセルジュークの夢へ没入します。セルジュークの夢が終わるとすぐに革命の夢へと回帰していきます。
終盤では、革命の夢のなかでヴォロジンの夢を共有することになります。そしてついに革命の夢は消え、精神病院の『現実』に目覚めてピヨートルは退院します。退院したピヨートルは現代の社会のなかに革命の幻影を見出し『現実』でチャパーエフと再会します。
序盤で完全に別の現実(或いは夢)であった2つの世界は、中盤には切り替わりが早くなり、終盤では両者の情報が交じり合います。さらに仮想的な絶対空虚(または現実)の象徴、‟ウラル”に飛び込むことで両者は完全に融合し、ピヨートルは2つの夢を行き来する必要がなくなりました。ウラルについて本編では次のように語られています。
僕が目にしたのは、無数の色に光り輝く、虹の奔流とでもいうべきものだった。どこか無限の彼方から、同じく無限の彼方に流れていく広大無辺な川。(中略)考えたり想像したりできることはすべて、この虹の奔流の一部にすぎない。正確に言うと、この虹は僕が考えたり経験したりできることのすべてであり、僕の存在のすべて、あるいは僕ではないもののすべてだ。そして、前から自分でもわかっていたに違いないが、それは僕と一切異なるところのないものだった。僕が虹であり、虹は僕なのだ。僕はつねにこの虹であり、それ以外の何ものでもなかった。
(「チャパーエフと空虚」群像社 p410,411より抜粋)
ウラルとは老荘思想の『万物斉同』のような‟世界とわたしは一体であり、わたしとは大きな自然の一部である”という主張に見えますが、物語の結末と比較するともう一ひねりあるように感じます。
老荘思想はどちらかといえば『個人は自然の一部である』という自然(外部の世界)優位の視点に立っている考えだと思われます。それに対して、ピヨートルが精神病院のある世界で目覚めたままチャパーエフと再会するという結末は、内面世界が外的な世界を凌駕した状態を表している可能性を示唆しています(京極夏彦風に言えば『彼岸へ行った』ということでしょうか)。
本来、社会の共同幻想を見る『現実』に内面世界を見ることは難しいです(それは幻覚、幻聴と他人からは断じられることも多く、何より自らの理性によって否定する方が多いでしょう)。しかし現実の世界でそれを苦も無くやってのけたピヨートルは、外的な世界よりも内面世界が優位に立った状態にあると推察できます。そしてそこには、すべての理から解放された『自由』があるのではないでしょうか。
作中で自由についてピヨートルはこう語っています。
「ひとつわかりました。自由というのは理性がつくりだすすべてのものから自由なときにだけあり得るんですね。その自由こそが『知らない』と呼ばれるものだ。」
(「チャパーエフと空虚」群像社 p402より抜粋)
そして物語の最後は、チャパーエフとピヨートルの会話で締めくくられます。
「調子はどうだ?」と彼は言った。
「知りません」と僕は言った。「相矛盾する多彩な色にいろどられた内面世界の渦を理解することは困難ですから」
(「チャパーエフと空虚」群像社 p446より抜粋)
最後に「知らない」と言ったピヨートルは、外界の‟常識”から解放された自由を味わっていると思われます。しかしそれは、アンナに散々こき下ろされた『玉葱』のような空虚な自由かもしれませんが。
この文章はただの私見ですので、作品にはまだまだ沢山の解釈があるかと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。
*参考文献
老子・荘子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)
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完全に趣味。ハヤカワノンフィクション好きです…。
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村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』より、河童のほうが「似ている」と感じたので(※個人の感想です)。おすすめです。