本の虫生活

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3.11ー傍観者の罪悪感

東日本大震災から今日で7年経ちます。

 警察庁の発表によると、東日本大震災の死者数は全国で合わせて15895名、行方不明者2539名、負傷者は6156名に上ると報告されています(以下URLより引用)。

東日本大震災について|警察庁Webサイト

マグニチュード9を記録した驚異的な地震に加え、津波原子力発電所事故を誘発した、前例のない未曾有の大災害だといえるでしょう。

なのに、当時の衝撃はすでに薄れつつあるように思います。

 

この時期になるとニュースなどで目にする「3.11を忘れない」「記憶の風化を防ぐ」といった標語や番組にどうしても違和感を覚えます。

一体、何を忘れるのか。誰が忘れるのか。

被災地の一連の報道が、時折どうしても嘘くさく作為的に感じるのは私だけでしょうか。

 

被災者でも当事者でもない私がすべきことは、少なくとも「忘れない」と仰々しく冠した被災地の番組を見て満足することではないと思います。

年に1回、何も齎さない安っぽい同情をしては、すぐ忘れて日々を過ごす。

未だ進まない復興の様子、悲しみが癒えない遺族、生活に困窮する被災者、そして少しずつ立ち直り復興へと努力する若者にクローズアップした番組。

番組を見て、漠然と「酷い、かわいそうだ」などと思い、叙情的な音響と重々しいナレーションを聴いているだけで、何か考えたような気になる。そして次のニュースが流れたら、あっさり忘れてしまう。

果たしてそれでいいのでしょうか。

 

 年に1度、何周年という時期に特化してつくられる番組は、被災地の現状を伝える意味では有効です。番組を見て、誰かが復興に力を貸し、被災地のためになるかもしれない。この先大災害が起きたとき、教訓を生かして大勢の人が助かるかもしれない。だから、意義はあると思います。

しかし報道を見て、被災地の復興のため実際に行動を起こす人など少数しかいません。

せいぜい、身の回りの防災チェックをしたり、きまぐれに寄付をしてみたり。

人はそれぞれ自分の人生があるので、全員が行動すべきとは思いませんが、都合よく思い出して同情だけする、その時だけ神妙にするという態度が好きになれません。

それくらいなら、自分は免れてよかったとほっとするとき感じる後ろめたさ、復興に手を貸さなかった罪悪感を持ち続けているほうがよっぽどマシだと思います。

部外者として関わった人の責務は、「傍観者の抱える罪悪感」に向き合い続けることではないでしょうか。

 

震災が起きたとき、私は関東に居ました。大きな揺れや停電こそ体験したけれど、津波原発事故はニュースで見ただけのことしか知りませんでした。それでも毎日報道される被災地の様子、刻刻と変化する福島第一原発の状況と不信を覚える事故対応、終わりの見えない物資不足と計画停電に、皆多かれ少なかれ不安を抱きながら毎日を過ごしていました。

 私は当時受験生で、国立大学の2次試験を控えた前日でした。最後の追い込みをかけているところに地震が起き、結局入試は中止となって浪人することになりました。

当時、被災地や社会全体が大変な状況にあったはずですが、私は自分の事情に精一杯で、被災地のことなんかほとんど考えていなかったように思います。その後も2年かかった自分の受験がやっと終わり、震災のことなど年に1度思い出すくらいで碌に考えないまま、学生生活に夢中であっという間に卒業していました。

 いま思うと、浪人時代もその後の学生時代も、復興のボランティアに関わったり、被災地や震災、復興状況について調べることはいくらでもできました。でも私は、被災地の報道を横目で見ながら、「自分だって浪人しなきゃいけなかったし、酷い目に遭った。」「別に私がしなくても誰かが手助けするだろう」と冷淡に考えていた気がします。

 

そういう冷淡さこそ、私がいま抱える「傍観者の罪悪感」を欠いた態度なのでしょう。

 世界には貧困で教育を受けられない子供が居る。紛争地帯で明日の保証もない人がいる。あるいは日本でもいじめられて深い心の傷を負う子供がいる。職を失い苦しい生活を送る人がいる。けれど、そうでない人達は、全ての人に手を差し伸べるなどできない。だから見て見ぬ振りをして自分の人生に専念するしかない。けれど、後ろめたさは感じる。

被災者に感じる罪悪感は、これと同じものだと思います。

 

2011年10月時点で、日本の総人口は1億2779万9千名(統計局HPより引用)。

統計局ホームページ/人口推計/人口推計(平成23年10月1日現在)‐全国:年齢(各歳),男女別人口 ・ 都道府県:年齢(5歳階級),男女別人口‐

前述の通り、東日本大震災の死傷者、行方不明者は24590名で、人口の約0.019%ほどであったとわかります。

つまり、大災害ではあるけれど、圧倒的大多数の日本人は最悪の被害は免れています。少数の人が傷つき、大多数が被害を免れ日常を生きていることは間違いないでしょう。

 

誰しもなにかを搾取したり、搾取されながら生きています。例えば原発は、広範囲で使う電力供給のためでも、人口の多い首都圏の都市部にはありません。核廃棄物の処理場は、各地で押しつけ合いになりました。電力不足で計画停電があったときは、東京中心部付近はコンビニの照明が暗くなる程度でも、ほかの関東地方は一日に何時間も停電しました。

被害に遭ってない人だって、何かしら苦しみや問題を抱えて生きていると思います。でも、「免れた」人たちが自分に関係ないと思い、「忘れたり、無視したり」して冷淡に生きていく社会は、とても世知辛いものではないでしょうか。

 

すべてに救いの手を差し伸べようとしたり、無理をして他人に尽くす無償の愛がよいとは思いません。

でも、自分の生活、人生は何かしらの犠牲の上に成り立っていることは自覚すべきだと思います。知らずに様々な人やもの、歴史を犠牲にしているし、自分が犠牲となる場合もある。

 いつ自分が哀れまれる立場になるかなどわからない。

そのとき、周りの傲慢な無関心はどれだけ辛く感じるでしょうか。

もし自分が大変な目に遭っても、誰も助けてくれないような社会。他人は踏みつけても無視しても構わないと思う人達がつくる社会。そんな社会は、少なくとも私は歓迎できません。

 

震災を考えるとき、上からの傲慢な視点で「かわいそうに」と言っていないか。

蚊帳の外と思い、無関心になっていないか。

報道される政治家は、まさにそんな姿をしている人が多いように感じます。

自分はそうなっていないか。今一度、胸に手を当てて考えなければと思います。

 

 

罪悪感と謙虚さを忘れない。

それが、傍観者だった私ができる「手向け」なのだと思います。