ソロモンの偽証検証_【後編】"信じる"ことのその先に
ソロモンの偽証、感想後編です。
5-6巻 あらすじ
ついに始まった学級裁判。8月15日終戦記念日、快晴のなか開廷された裁判。全日程5日間の濃密な時間がはじまる。
落ち着いた弁論と着々と積み重ねた状況証拠で被告人の弁護を有利にすすめる弁護側。藤野涼子の予想通り、警察、遺族の証言、どれを取っても旗色の悪い検事側は、弁護側や傍聴人の意表をつく証人を次々と召喚し、追い上げを図る。両者とも一歩も譲らない激しい論戦が序盤、繰り広げられる。しかし、結末に近づくにつれ、奇妙な感覚が藤野涼子を襲う。もしかしたら、真実はもっと別のところにあるのではないか…。最後の最後で、秘されていた事実が暴かれるとき、事件の様相は一気に裏返る。はたして、真実は、結論はどこに着地するのだろうか…。
〇後半ーマ_"信じる"ことのその先に
「誰かに言い分を聞いてもらい、信じてもらい、擁護してもらい、一緒に戦ってもらうという経験が、切実に必要なのかもしれないな。」
(新潮文庫「ソロモンの偽証」6巻 P58より一部抜粋)
痛々しい小説だった。読みながら、自分の欠点を、忘れていた過去の失態を、自分のいままでの人生を糾弾されているような気がした。
Ⅰ嘘と法廷
告発状の差出人、三宅樹理が大出を陥れるために吐いた嘘。森内に嫉妬し、告発状をテレビ局に送り付けた垣内美奈絵の悪意。野田健一の、両親を殺そうとした計画を隠すために吐いた嘘。そして、神原和彦が隠していた事実。
真実を見つけ出すために法廷では、宣誓のとおり事実だけが語られることはない。むしろ、本作では、三宅樹理の「偽の証言」を検事側が採用するというセンセーショナルな場面があった。警察が調べ、被害者の両親が語り、傍証からして誰一人真実と‟信じていない”事実を語る三宅樹理の証言を、それでも藤野涼子は法廷で語らせた。この‟学級裁判”自体が、最初から本気で被告人を疑っている訳ではなかった。大人も子どもも、大出少年が無実であることなど心の底ではわかっていた。だから、裁判は、被告人の罪を判定する場ではなかった。
なら、なぜ裁判は行われたのか。
都合の悪いことを隠蔽し、様々な事実が秘せられたままでは、どんなに確からしい事実があっても疑念は払拭できない。大出俊次は本当に無実なのか。柏木卓也はなぜ亡くなったのか。浅井松子は、なぜ死ななければならなかったのか。噂でも憶測でもなく、きちんと当時を振り返って考えることで、きっと真相は掴める。裁判を‟開く”ことこそがなにより重要だからこそ、結果がどうであれ‟藤野涼子の勝ちになる”と神原和彦は言った。
そしてそれは、結果として‟声なき声”を聴き、黙殺された、或いは告白の機会を奪われた者たちを救うことになる。
Ⅱ対話
この小説の魅力は、‟裁判が争うことを目的としない”という、逆説的な設定に大きくよると思う。普通裁判といったら、検事と弁護側が被告人の罪状を巡って争うものだけれど、この学級裁判は違う。物語が進むにつれ、弁護人、検事側双方の証人が出廷するたびに、新しい事実が開示されていく。なかには嘘や仕込みが混ざっていて、トラブルも次々と発生する。本作で描きたかったのは‟対話”ではないだろうか。
三宅樹理は、学校内の嫌われ者で、誰にも信用してもらえなかった。
大出俊次達の悪事は、学外まで知れ渡っていたのに、誰も彼らを正面から糾弾も説教もできなかった。
野田健一は、あと一歩で完全犯罪を実行するところだった。
垣内美奈絵は、夫に去られ誰にも気に掛けられず放置されていた。
柏木卓也は、教室内で誰からも構われず、孤立していた。
神原和彦は、クリスマスの夜の出来事を誰にも打ち明けなかった。
これらは全て相似形で、すべて‟孤独”の形をとっている。
柏木卓也の事件に直接は関係ないとして、誰もに取り合おうとしなかったそれぞれの葛藤を、孤独を、裁判という場で取り上げることで‟対話”に持ち込んだ。
誰にも話せなかった、誰も聞いてくれなかった、聞いてくれないと諦めていた、そんな孤独を抱えた者達を「信じて」話す場を設けることで、憑き物が落ちたように変わっていく証人たちの描写がすばらしい。
Ⅲ‟信じてもらう”ことの先へ
特に、最後まで見せ場のあった三宅樹理の描き方は、すごく胸にささった。
藤野涼子は、心の底では信じられないと思っていても、検事として「信じる」ことを三宅に約束する。三宅だって検事が信用していないことをわかっているし、法廷で偽の証言を撤回することもない。それでも、声を失っていた三宅が最初に話したのは、彼女を「信じる」といった検事で、6巻の、裁判最終日の前日に、話がしたいと思ったのも検事である藤野だった。藤野では、三宅に嘘を認めさせることも、素直な心情を吐露させることもできなかったが、それでも彼女が三宅を「信じる」と決めて話を聞いたから、少しずつ三宅の行動も変わってきた。そして、藤野ができなかったことを、神原和彦が完璧にアシストしている。三宅に「嘘を吐いていないか」と正面から糺すことができたのは、神原だけだった。そして、誰もが三宅の行動に眉をひそめ、浅井松子を除いて彼女の心情を慮らなかったのに、神原は彼女の心情を思い遣り、大出達の悪事をつまびらかにし、彼女の受けた傷を正面から代弁した。
三宅の言い分を「信じる」ことを優先した藤野は、三宅の嘘を糺し、その上で感情に寄り添うことはできなかった。しかし、藤野がいなくては、三宅は釈明の場を与えられなかった。検事、弁護人、どちらが欠けても彼女の孤独に手が届かなかったはずで、これが本作で繰り返しテーマとなっている「信じてもらうこと」の、さらにその先の可能性なのではないだろうか。
本記事の最初に引用した、大出家の顧問弁護士の風間先生の言葉。
誰かに言い分を聞いてもらい、信じてもらい、一緒に戦ってもらう経験。
誰もわかってくれないと閉じてしまった人が、人に信じてもらうことで、ようやく自分の意見を述べられるようになる。
三宅樹理は、藤野涼子に味方され、神原和彦に慰められ、やっと自分を縛っていた「嘘」から解放された。彼女が法廷で告発状の嘘を告白しなかったのは、彼女にはもうその必要がなかったからだ。
あたしの顔だ。樹理は思った。垣内美奈絵の顔は、あたしにそっくりなんだ。
あれは噓つきの顔だ。嘘をついて他人を傷つけ、自分も傷つく人間の顔だ。
そして何もかも取り返しがつかないと、絶望している人間の顔だ。
―それがあたしの判決だよ。藤野さん。
(新潮文庫「ソロモンの偽証」6巻 P216より一部抜粋)
信じてもらったその先で、彼女は自分の過ちを認め、自らに判決を下した。
今更嘘を撤回したところで、自分の無二の友人であった浅井松子は生き返らない。いつも自分を信じて受け止めてくれた存在は、自分の嘘のせいで死んでしまった。だから自分の嘘は、もう撤回する意味はない。一生抱えなければならない悔いを自分に課した。
そして、裁判の最終日、神原和彦の告白の日。
三宅樹理が、最後の最後でもう一度「嘘」の告白をした場面。ずっと自分を守るためにつき続けた嘘を、他人のために使ったことは、彼女の成長にほかならない。
柏木卓也を死に追いやったのは自分だと告白する神原を三宅樹理が庇ったのは、彼女を救ってくれた神原への感謝だけでなく、共感ともとれる。誰よりも、友人を死に追いやった自覚がある彼女だから、「あなたは悪くない」と神原に言えた。これは、裁判の最後で反対尋問をした野田健一が、彼にかけた言葉ともリンクする。両親を手にかけようとした、強い殺意を持ったことがある野田だから、神原が殺意を持って柏木卓也を死に追いやった訳ではないと主張できた。近い経験をした者同士が、相手を認め、思いやりかけた言葉は、他のどんな慰め文句より響くものだろう。
三宅樹理の最後の嘘は、「他人を思いやり、他人のために行動を起こす」という勇気のあらわれだ。
信じてもらったから、自分の意見を言えるようになった。
そしてその一歩先の勇気で、他人のために行動できるようになった。
彼女の成長は、誰であっても信じてもらうことで、その先の可能性が開けるという救いを物語に齎してくれる。
柏木卓也は、信じてもらえなかった、人を信じられなかった場合の三宅樹理かもしれない。美術の先生、クラスメイト、両親や兄、そして神原和彦。どこかで、歯車が嚙み合えば彼は生きていられたかもしれない。邪悪な印象さえ与える彼の本性は、助けを求める小さな怯えたただの少年だったのではないだろうか。
「もっと早くに、柏木君の葛藤が解けるように、悩みが軽くなるように、 誰かが何かできたんじゃないかという話し合いをしました。それはその、他所の誰かじゃなくて、俺らも含めて」
(新潮文庫「ソロモンの偽証」6巻 P451より一部抜粋)
ずっと、裁判を聞き続け、沈黙を守ってきた陪審員たちの判決。
もっと早くに何とかできたかもしれない。自分が声を掛けていれば、変わったかもしれないという真摯なことばは、確かに裁判を締めくくるには相応しい。何の変哲も捻りもない素朴なことばだけど、すとんと心に落ちた瞬間だった。
以上、ソロモンの偽証感想後編でした。