本の虫生活

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【不条理を読む】シーシュポスの神話

『異邦人』で有名な不条理作家、カミュの随筆『シーシュポスの神話』を読了しました。

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

シーシュポスの神話 (新潮文庫)

 

 フランツ・カフカに代表される、所謂不条理小説はいまでは珍しくなくなりましたが、本作は不条理とはなにか、不条理は人間にどう作用するかを突き詰めた随筆(論説文に近い内容です)という一風変わった作品です。

なんとなくわかったような、全然わからないような読後感の多い不条理小説を理解するのを助けてくれる、‟不条理小説の解説書”というような印象を持ちました。

 表題の「シーシュポスの神話」は、たった8pの随筆です。文庫の大半は不条理に関するカミュの考察が続きますが、本記事ではこの8pの随筆について考えていきます。

 

シーシュポスの神話とは諸説あるが、神の怒りを買い無限の労働という罰を受けた男の悲劇です。日本でいう賽の河原の話に近い話です。

シーシュポスが課せられた罰は、大岩を山頂まで運び続けること。動かすだけで骨が折れる大岩を自分の肉体のみを使って少しずつ、少しずつ押し上げやっとの思いで山頂に到る。けれど山頂に着くや否や岩は斜面を転がり、麓まであっという間に落ちてしまう。そしてシーシュポスは再び岩を運ぶために、山を下りていく…。

無益で目的も目標もない労働に従事することこそ最大の罰であると言わんばかりの気の遠くなるような行為を、シーシュポスは課せられています。しかしそれは本当に不幸なのか。カミュは、不条理に見えるこの物語へ疑問を投げかけ、新しい知見を提示しています。

この神話が悲劇的であるのは、主人公が意識に目覚めているからだ。きっとやり遂げられるという希望が岩を押し上げるその一歩ごとにかれをささえているとすれば、かれの苦痛などどこにもないということになるだろう。こんにちの労働者は、生活の毎日毎日を、同じ仕事に従事している。その運命はシーシュポスに劣らず不条理だ。

 (「シーシュポスの神話」カミュ著 p213より一部引用)

もし彼が岩を運ぶ理由を知らず、いつか達成できると希望を持っていればそれほど彼の運命は悲劇的ではない。ですが彼は、自らの運命を熟知してしまっています。神に見放され、永遠に続く苦役を背負っていることを知っています(今日の労働者も同じくらい不条理だとカミュは指摘しますが、読んで少しヒヤッとした人もいるでしょう。そんなに目的もなく毎日を過ごしているつもりはないですが、それは願望、思い込みにすぎないかもしれません)。これだけ見ればシーシュポスは『不幸』に思えますが、カミュの主張はその逆です。

 このように、下山が苦しみのうちになされる日々もあるが、それが悦びのうちになされる日々もありうる。(中略)かぎりなく悲惨な境遇は担うにかあまりに重すぎる。これがぼくらのゲッセマネの夜だ。しかし、ひとを圧しつぶす真理は認識されることによって滅びる。

 (「シーシュポスの神話」カミュ著 p214より一部引用)

頂上を目がける闘争ただそれだけで、人間の心をみたすのに充分たりるのだ。いまや、シーシュポスは幸福なのだと想わねばならぬ。

(「シーシュポスの神話」カミュ著 p217より引用)

悲劇は、自らに起きている事象、運命を認識することではじまりますが、同時に人は認識することで運命を自らの手に取り戻すことができる。幸福を手にすることができる。カミュはそう説いています。

この世界の一切の不条理、悲劇は自分で認識も支配もできないから『不幸』なのであり、自らの悲劇(運命)を認識し、自分が世界を、自分の人生を支配しているのだと知ることは幸福である。人間は不条理を知り、幸福を知ることができる。そんな逆説的な論で本文は締めくくられます。短い文章ですが、最初のイメージを鮮やかに覆してくる新鮮な読書体験でした。

 

表題とともに、本書では不条理についての論証、考察が章ごとに展開されています。『異邦人』や『幸福な死』で描かれた不条理を、論理的に考察していく本書は、不条理小説を読み解くヒントにもなります。不条理と自殺についての論証は、カミュらしいというか、先入観を覆してくる文章でドキドキしながら読みました。キルケゴールショーペンハウアーを最近読み直していたので、こちらと比較しても面白かったのでおすすめです。また、ドストエフスキーカフカを読んでいる人はなじみ深い話も多いと思うので、合うかもしれません。

複雑で多様な側面をもち、人間とは切っても切り離せない『不条理』の世界を紐解く、知的好奇心をくすぐる1冊です。