本の虫生活

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菜食主義者ー狂気の美と日常の憎悪

目立った特徴がどこにもない、「平凡でふつうな女」だと思っていた妻は、ある日を境に「知らない女」になってしまった…。

 

これは、Twitterで流れてきた『読んだら体調が悪くなる』という凄い感想を拝見し、俄然読みたくなった本です。実際、読んでみたらどうなるのか、体調が悪くなるほどの繊細な感受性が自分にあるのか微妙だと思いましたが(『熊嵐』『ひかりごけ』を読んだ後熟睡できるぐらいなので)、読んでみて‥‥ちゃんと気分が重くなったのでほっとしました。

 

本作は、突然肉食を厭い菜食主義者となった女性が、周囲に迫害されながら静かに狂っていくという、なかなかショッキングな内容の物語です。本当に狂っているのはだれなのか、何なのか、…。社会の抑圧から逃れることの苦痛と陶酔が淡々とした語り口で描かれており、おぞましさと共に美しさを感じる文章でした。

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)

菜食主義者 (新しい韓国の文学 1)

 

 本作は、3つの短編から成る連作短編集です。

表題の『菜食主義者』からはじまり、2年後の事件を綴った『蒙古斑』、3年後の『木の花火』で終幕となります。簡単にですが、この3編のあらすじを書いておきます。

 

(あらすじ)

菜食主義者

平凡で目立った特徴のないところが何もない普通の女であることを買い、結婚したはずの妻ヨンヘは、ある日突然肉食をしなくなった。夫の目線から描き出される妻は、平凡な女から、得体の知れない見知らぬ女へと変化していく。少しずつ今までの生活から離れて、夫や周囲の人間の目から見て「狂って」いく妻に恐れと嫌悪をにじませていく夫は、物語後半からだんだん傍観者へとなり果てていく。親戚一同が集って食事を摂ることになったその日、事件は起こってしまった。

 

蒙古斑

①の事件から2年ほど経った時間軸。ヨンヘは夫と離婚し、療養を続けながら社会復帰を目指していた。ヨンヘの姉のインへは、ヨンヘを心配して自分の夫に様子を見てやってほしいと持ち掛ける。芸術家であるインへの夫は、義妹であるヨンヘに蒙古斑が残っているという話を妻から聞き、強烈なインスピレーションを得て、ヨンヘに作品のモデルになってほしいと持ち掛けた。義妹の蒙古斑に異常な興味を持ち、葛藤しながらも欲情してしまう彼と、モデルを引き受け恍惚を得るヨンヘは、ついに第2の事件を引き起こしてしまう。

 

木の花火

②から1年後、病院に入院したヨンヘを見舞う人間は、もう姉のインへしかいなくなっていた。狂った次女を蔑み、見捨てた両親や、ヨンヘを見捨てた夫に変わり、インへは一人でヨンヘの世話を続けていく姿を見て、インへは説得を重ねて妹を助けようとするが、ヨンヘはもう姉の言葉も届かなくなっていた。全く効果のない治療や説得に疲れていくインへは、ヨンヘの気持ちに、精神にすこしずつ肉薄していくが…。

 

 

 『ベジタリアン』という言葉は随分前から一般的に使用されており、考え方も世界中で理解されている気になっていましたが、本作を読んでその認識が変わりました。

普段受け入れている気になっている菜食主義(ベジタリアン)は、身近にないから興味がないだけなのかもしれません。もし身近にいたら、奇異の目で見たり、嫌悪を感じることは本当にないのか。そう考えると、自然に衒いなく受け入れることはできるか、不安になってきました。

主人公のヨンヘは、「何の特徴もない平凡な女」として、社会の規範から何ひとつ外れない存在として登場します。しかし、菜食主義をはじめてから、彼女への評価は一変します。菜食主義にはじまり徐々に周囲の人々とは違う行動が表に出始めると、夫を発端として周囲は彼女を好奇の目に見つめ、嫌悪し、『矯正』しようと圧力を強めていきます。当然の権利として肉体関係を強要する夫、肉を無理やり口に突っ込んでまで食べさせようとする父親、漢方薬と偽ってたんぱく質を摂らせようとする母。自分達の「普通」をヨンヘに押し付け、日常からの脱線を許さない3者の行為が、抵抗するヨンヘの獣性を呼び覚ますことになる最初の短編は、読んでいて胸が悪くなるくらいでした。

 

この小説は、1編目だけで充分重たいのに、続く2編で追い打ちをかけてきます。しかし、読むならばぜひ最後まで読んだほうが、この物語を理解できると思います。なぜヨンヘが肉食を拒んだのか、夢で、ヨンヘの言葉で語られる植物のモチーフと菜食の関係は、蒙古斑がなぜ出て来るのか、…。最後まで読むと、ひとつひとつの繋がりが朧気に見えてきます。

菜食主義者」でヨンヘは、胸を拘束する下着を嫌がるる描写があります。最初に読んだときは気が付きませんでしたが、この場面も後への伏線になっていたのだと思います。

胸では何も殺せないから。手も、足も、歯と三寸の舌も、視線さえ何でも殺して害することのできる武器だもの。 

 (「菜食主義者」 p55より抜粋)

この台詞はとても象徴的です。 肉を食べることを嫌がる理由として、ヨンヘが命を奪うことへの嫌悪、自らのために他を害することへの嫌悪があるのでは、と感じました。

2編目の「蒙古斑」は、ヨンヘの臀部に残る蒙古斑を巡る騒動です。彼女の特徴といえば、最初に描かれていたのは平凡、普通だけだったのに、1編目、2編目で強調されているのは、「」と「臀部」。明らかに女性性を意識せざるを得ない部位を特徴的に描写されるのが、なんとも厭な気分になりました。彼女の精神は女性性から離れ、植物のようになることを切望するのに、周囲の目は彼女の女性性に向き、胸をさらけ出す彼女を蔑視し、蒙古斑に欲情するという倒錯が起きてしまいます。社会の中で、性別を否定することが困難であると突きつけられるようで、ちょっと複雑な気分になりました。

ただ、この『蒙古斑』は、彼女の女性性以外にも、もうひとつの暗喩が込められています。 本編中で「太古のもの、進化前のもの、光合成の跡のような」と評される蒙古斑は、ヨンヘの持つ心的イメージである植物とリンクしています。最終章の3編目では、幼子のようになってしまったヨンヘが描かれます。ふくらんだ胸は痩せてなくなり、臀部に蒙古斑が残り、身体的変化に合わせるように、精神も無邪気な子どものようになっていきます。ここへきて、しつこく描かれた「胸」と「蒙古斑」が、子どもへと、命のはじまりへと還っていく暗喩だったのではと気が付きました。なかなか読みにくい作品ですが、各所に散りばめられた暗喩と伏線を探っていくと、まだまだ解釈できると思います。

 

 

そして、ここでやっとタイトルに戻ります(前置きが長すぎました)。

狂気の美(ヨンヘ)と日常の憎悪(インへ)について。

この記事で一番書きたかったことは、ヨンヘの姉、インへの感情の揺らぎです。

ヨンヘの狂気を恐れ、或いは厭い、引き離されたことで、ヨンヘの周囲には最後は姉以外いなくなります。最初はヨンヘを全く理解できていなかった姉が、2人で過ごすうちにヨンヘの感情にシンクロしていき、そして離れていく機微がとても物悲しく、惹き込まれました。

 ヨンヘは2編目のはじめ、夫と離婚して就職活動をし、日常へ戻るような素振りを見せていましたが、3編目に入るともう戻る兆しはなく、一切の食事を拒むようになりました。姉はそんな妹を心配していましたが、だんだん恨み、憎悪を見せるようにもなります。

しかしインへが哀しいのは、ヨンヘに共感する故の憎悪であるからです。

泥沼のような人生を自分に残しておきながら、死(自由)へ向かう妹への嫉妬を覚え、

子どもさえいなければ、自分だって日常から離れてしまっただろうと思う。

インへは妹を『理解できない狂人』と思うのではなく、一種の羨望と嫉妬から憎悪を向けている場面、読んでいて一番共感できるところでした。

 

狂気にしか見えない行動をするヨンヘは、死ぬ寸前まで追い込まれ、痛々しい描写が続きます。しかし、「蒙古斑」で描かれる彼女の肉体や、「木の花火」で幼子のように笑うヨンヘはうつくしく描かれます。日常にいては決して手に入らない、自由な精神から齎される美は、きっと見たものを動揺させ、嫉妬させるのだと、読みながら感じました。

社会で生きていく以上、がんじがらめのルールや暗黙の了解に従い、自分の望みを抑え込んで周囲に合わせ続けなければ、或いはそれを自らの意思と思い込まなければ、居場所はなくなってしまいます。けれど狂ってしまえば、周囲からの迫害に負けなければ、精神の自由というこの上ない幸福を手に入れることができるかもしれません。

本作で描かれたのは凄絶な自由への渇望と、それを許さない社会、日常の圧力なのだと思います。規律を乱す異分子を排除しなければ社会の秩序は保たれないから、異分子を排斥しようとするのは、自然な流れでしょう。しかし、個人の幸福、自由を求める気持ちはどの人間からもなくなりはしない。だからこそ、抜け駆けで『自由』になろうとする狂人に、日常に住む人間(わたしたち)は嫉妬し、憎悪してやまないのではないでしょうか。