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【百鬼夜行シリーズを読み解く】③神秘体験と自己意識

百鬼夜行シリーズ読み解き記事、第3弾です。

 宗教と精神分析という異色の取り合わせが交錯する『狂骨の夢』の読み解きに挑戦します。いつもながら完全にネタバレを含み、かつ未読の方にはわかりにくい内容になっていますのでご留意ください。

文庫版 狂骨の夢 (講談社文庫)

文庫版 狂骨の夢 (講談社文庫)

 

シリーズ3作目は、話題になった魍魎の匣や重厚な鉄鼠の檻、絡新婦の理などに比べると、ファンの間でも話題性が薄いような気がします。

しかし読み返してみると、シリーズの転換となった重要な作品だと思い直しました。

 家族や個人が物語の主役で、関口や木場など事件に関わった特定の人物の視点が重視された1、2作目に対して、3作目は宗教や共同体という集団がメインであり、視点もころころと変わり、前作よりも俯瞰した視点で描かれているように思います。集団で起こった事件によってぐっとスケールが大きくなり、これ以降作品の幅が広がった転換の作品だという印象を受けました(ただ、姑獲鳥や魍魎は小さいコミュニティ内の物語である分、人物の掘り下げや描写が繊細ですごく好きでした。それでも狂骨以降はスケール感や扱うテーマの多彩さが際立っているので、狂骨はシリーズにとって割と重要な作品のような気がします)。

 

 仏教、キリスト教神道精神分析、夢判断、…。そして、1作目から問われ続けている意識の所在と脳へのテーゼ。幅広いテーマを内包しているため苦しみましたが、3作目の読み解きのテーマは神秘体験と自己意識にしました。これに沿って以下のトピックで進めていきます。

 

①神秘体験

②現実と誤認

③骨と永続性

 

 それでは、①からはじめます。

 

①神秘体験

 本作では仏教、キリスト教神道とそれぞれの信者が登場するほか、精神分析に傾倒したり、劇的な体験をして心持の変化した登場人物が目立ちます。気になった人物をまとめてみました。

 

伊佐間マラリアで死の淵へ行き、生還後宗教観が変化。無宗教から多宗教へ。

降旗⇒幼少時の奇怪な夢の意味を探るため、精神分析を学ぶ。以降、フロイトの幻影に悩まされる。

白丘⇒幼少時の神官との邂逅後、骨を怖がるようになる。神秘体験を否定するためにキリスト教を信仰。

民江(宇多川朱美)⇒川で溺れたショックで記憶を失くし、助けてくれた宇多川崇を全面的に頼る。私にとっての神は夫だと発言。

 

この4人に共通するのは、ヌミノーゼ(劇的な神秘体験)を経て自己の変化を認めているけれど迷い、悩んでいるところです。『魍魎の匣』ではシンクロニシティを経験し彼岸へ渡った人物について記事を書きましたが(久保、雨宮など)、上の4人は‟彼岸へ渡れなかった”者たちなのだと思います。

伊佐間はいわゆる臨死体験をしてから神社から鰯の頭まで何でも拝むほど信心深くなったとはいえ、別に‟あの世”を信じたわけではなく、自分の体験を脳の見せた幻覚にすぎないかもしれないと冷静に判断しています。降旗は夢を神秘的なものとは思わず、謎を解き明かすため只管論理を求め、精神分析に行きついています。そして白丘は作中で自ら語っていたように、幼少時の異常な体験を「ありえないこと」と否定するために様々な宗教、古典を勉強してキリスト教へと辿り着きます。民江は自分の中に他人の記憶が混じる現象に恐怖を抱きますが、本人の語り口はとても理性的で、原因について夫や降籏に相談して現実的に対処しています。

神秘的な体験をしたからといって、簡単に『あちら側』へ行ける訳ではない。魍魎の匣で垣間見えた蠱惑的な彼岸と対照的に、本作は『こちら側』に留まる苦しさ描いているような気がします。しかし、神秘体験をした者であっても全員違う描かれ方をされているところが面白いです。

一番気楽に受け流しているのが伊佐間です。

理解が及ぶ限り傾倒はするのだが、確固たる信念にまで高められることはなく、受け入れたり拒否したりを繰り返すから、自然と志のなき男のように見えるのである。

 講談社狂骨の夢」p55より一部抜粋)

神秘体験を過剰に妄信せず、かといって無視や否定もしない。なので傍目にもあまり人が変わったような変化安定しています。

次点は民江です。繰り返し現れる夢の記憶や訪問者によって疲弊はしますが、神秘の正体を探るために教会を訪ねる辺りまでは比較的冷静に見えます。夫を心の支えとしているけれど完全に依存はしない。そのため事件が起きるまでは精神の均衡を完全には崩していませんでした。

苦しいのが降旗と白丘の二人です。神秘や迷信など毛ほども信じない科学者気質であり、知識は十分あるけれど何事にも傾倒できない性質。見るからに宗教や、未だ科学で割り切れない精神の世界に向かなさそうな性格です。二人は伊佐間のように適度に受け流すことができず、民江のように心の支えを持つこともなく孤独で苦悩に向き合い続けます。教会で二人で過ごす時間さえ共依存のようであり、終盤まで苦悩が続きました。

シリーズの主人公格の関口であれば神秘的な体験の話を聞き、関わるだけで簡単に彼岸を覗いてしまいますが、理性的で強固な現実感覚を持つ降旗と白丘の場合は『否定』を繰り返して疲弊していきます。物語の終盤でようやく白丘が救われる場面は胸を打ちますが、最後まで救われない降旗がその分痛々しく感じました。

「僕も信じれば良かった訳か。信じる者には約束されるーそれだけのことだった訳だ」

 講談社狂骨の夢」p775より一部抜粋)

 

 

②現実と誤認

作品内で重要なファクターとなっているのが「事実の誤認」です。

宇多川朱美と佐田朱美、佐田申義と宗像賢三、佐田申義と武御名方(髑髏)、脳髄屋敷の位置、・・・。偶然の一致やすり替えによる故意など様々な状況がありますが、これらの誤認が作品内で意図的に散りばめられているのが興味深いです。もちろんミステリとしてトリックを成立させるための布石ではあるでしょうが、誤認を繰り返し描くのは、降旗の追求した『意識と無意識』に対する答えのひとつだと感じました。

人は誰しも、あるがままの世界をそのまま知覚することはできない。これは、姑獲鳥の夏からくどい程描かれ続けたシリーズ中の論理です。脳が処理した情報は一人ひとり異なるので、皆が全く同じように世界を認識することはない。にも関わらずわたしたちは、作中の登場人物たちのように、普段はみな自分と同じような感覚を持っていると錯覚してしまいます。これは社会の生み出した共同幻想であり、欺瞞であると本シリーズはわたしたちに突き付けてきます。

普段、意識の俎上にのぼってこない降旗の「悪夢」や民江の「前世」は、上記のような共同幻想を簡単に揺らがせます。理性的なほど「常識的にこんなことはありえない」「信じられない」と否定して、誤認をさらに進めてしまいます。そして本編の最後で明かされる真相によって、降旗と民江の「夢」と「現実」の関係性は逆転します。降旗が分析した抑圧された自己などは幻想であり、髑髏の夢とは幼少時に見た現実のことであった。民江の「前世」とは自身の忘れていた過去の記憶であり、信じていた自分の記憶こそが偽りであったと明かされます。

無意識に押し込められた『記憶』が実体験で、目に見えていた『現実』が偽りであったという構図は、自己意識を妄信し無意識を怪しいものとして誤認することへの皮肉と警告ともとれます。

「単なる器官に過ぎない脳の機能でさえ完全に解明されてはいないのです。意識や記憶や心の領域は、そう単純に図式化されるものではありませんよ。慥かにあなたの仰っていることは正しいでしょう。その図式で説明し得るものも多くある。しかしその方程式から洩れるケエスがないと、どうして云い切れるのです」

 講談社狂骨の夢」p795より一部抜粋)

 京極堂のこの痛烈な台詞は、無意識をひとつの理論で読み解き、意識と切り離してしまうことへの警句ではないでしょうか。降旗という人は、彼岸や不可解な事象を簡単に受け入れる関口の対蹠にあたるキャラクターとして結構重要なのかもと思いました。それにしても本作では降旗の不憫さが際立っていていたたまれなくなりました(一番シンパシーを感じるキャラクターだったので、…)。

 


③骨と永続性

狂骨の夢というタイトルにあるように『骨』への執着が物語の鍵です。骨が宗教の、信仰の象徴として標的になり、事件が次々と引き起こされます。汚れた神官たちが集めた「聖遺物」や、立川流の僧たちの行った様々な「儀式」の材料として集められた‟骨”について考えてみます。

宗教の求心力のひとつに奇跡、ヌミノーゼがあることは古来より知られています。普段起こるはずのない事象、劇的な体験は①で述べたように個人の人生を変えてしまうことすらあります。ですが、一人ひとりがヌミノーゼを味わったとしても、それを集団で共有できなければ宗教としての求心力はイマイチです。そこで登場するのが『象徴』です。骨は、象徴としてとても重要な意味を有します。それが『永続性』です。

「ならば人は、人の本性は、骨にこそ宿っているのでございましょうか。それともそれは、肉や臓と共に腐って流れてしまうものでございましょうか」

 講談社狂骨の夢」p129より一部抜粋)

上記の朱美の問いは、本作の全編を通したテーゼです。白丘は死後の『意識の保存』を夢想して人骨を用いた反魂術に魅かれ、汚れた神主たちは自分達の信仰の求心力を欲して聖遺物である武御名方の骨に執着した。朱美と民江は思いを寄せた申義の骸骨に執着して手元に置こうとし、立川流の僧たちは尊い髑髏を大願成就のために利用しようとした。神官にとっては、骨を祀ることで神の実在証明をし、権威づけをはかれるということであり、インパクトのある聖遺物は世間の注目を浴びるだろうという心算もあったかもしれません。僧たちにとっては、髑髏は本尊といえるほど重要であり、自分達の儀式に使う大切な存在でした。朱美や民江が髑髏に執着したのは、恋着した申義をひとりじめしたかったからと読み取れます。

骨の最大の特徴は、『半永久的に残る』ことです。条件さえよければ何千年、何万年だって残ります。人の寿命はどうあがいても100年と少しであり、皮膚も肉も内蔵以後すぐに失われてしまいます。しかし、骨は残ります。だからその骨に、多くの宗教や人が永遠を夢見たのは自然なことだと思います。骨がいつまでも残るなら、人の魂(意識)も少しは残るのではないだろうか。そう夢想することで、絶対に避けられない死への恐怖を紛らわし、自己愛を守ることができる。だから骨は歴史上様々な場所で象徴として尊ばれたのかもしれません。

本編の話に戻ると、骨に仮託された永続性の否定が結論に結びついています。神官にしろ、僧にしろ、そして朱美や民江にしろ、骨への執着によって運命を狂わされています。しかし肝心の骨の神性については、本編中できっちり否定されています。

「骸骨系の妖怪は本来煩悩から解き放たれて陽気にはしゃぐような一面を持っているんだね。仮名草子の『二人比丘尼』に出て来る骸骨達も、骨を鳴らして歌い踊り、腐る部分が落ちた自分達ほど人の本質だ、と現世の無常を笑い飛ばす。(後略)」

 講談社狂骨の夢」p650より一部抜粋)

骨の妖怪とは、生前の恨みを持っていてもそれを湿っぽく祟るようなものではないと京極堂は言及しています。また、次の台詞はもっと過激です。

骨になれば犬も豚も一緒だよ。生前誰だったかなんて考えるだけで疲れるよ」 

 (講談社狂骨の夢」p953より一部抜粋)

身もふたもありません。執着しているのも、期待をかけすぎているのも生きている人間のほうであり、骨にはそんな力などないと示唆しています。だから骨に憑りつかれているのではなく、自分が執着していたのだと気づいた白丘は骨への執着をなくすことができました。信仰を持つこと自体は神秘体験とは関係なく、ただ自分が信じることができればよかったのだと気が付き、やっと白丘は救済されます。朱美は伊佐間に自分の妄執が死後も続く恐れを漏らしていましたが、事件の真相を知り妄執と決別し、未練があった申義の髑髏を手放すことができました。白丘の回心と本編最後の朱美の独白は、シリーズの中でも屈指の美しいシーンだと思います。「吹けば飛ぶ~」のくだりは、ファンのなかでも好きな人は結構多いんじゃないでしょうか。

 

 

『夢』が冠されるタイトルでありながら、本作はとても現実的な物語になっていました。姑獲鳥の夏では、この世のモノでないような涼子の不気味さと神秘性が生き生きと描かれており、魍魎の匣では彼岸の存在が蠱惑的に描写されていました。『あちら側』の世界に寄りつつあった世界観を、3作目で引き戻してきたようなような気がします。

 

3作目、『狂骨の夢』の読み解きは以上です。4作目の『鉄鼠の檻』と5作目『絡新婦の理』は思い入れのある作品なので、気合を入れて取り組みます。ちょっと更新が遅れるかもしれません・・・。

また、『鵺の碑』ではないそうですがシリーズ最新作が発表されるようですね。まだ詳細は知りませんが読めるのが楽しみです。

最後までお読みいただきありがとうございました。