本の虫生活

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【ペレーヴィンを読み解く】内面世界で見る夢は、外界を超越するか

昨年読書会で出会い、瞬く間にのめりこみました。

 

昨年参加した読書会で出会い、貸していただいた本です。

現代ロシア文学という全く馴染みのない分野でしたが、最近では全然読むことが無かった哲学的で不思議な文体に夢中になり、無謀にも読み解きに挑戦してみました。

こちらがその本です。

 

チャパーエフと空虚

チャパーエフと空虚

 

 

夢と現実、仮想現実と現実世界の入り混じる摩訶不思議な読書体験でした。

ピリリと効く風刺とクスッと笑えるユーモアを交えながら、個人の精神世界と自己意識の実存を問う怪作です。

 

~あらすじ~

 ロシア革命から1年経つ1918年のモスクワで、ピヨートル・プストタ(空虚)という奇妙な名を持つ青年は旧友のグリゴーリイ・フォン・エルネンと再会した。詩人であるピヨートルは詩の1節を危険思想と断じられ、ソビエト政府の設置した秘密警察組織(チェーカー)に追われ、ペテルブルクからモスクワまで逃れてきていた。その顛末をフォン・エルネンに話すが、既にチェーカーの活動員となっていたエルネンはピヨートルを拘束しようとする。もみ合いの末エルネンを殺害してしまったピヨートルは、エルネンを迎えに来た二人の活動員と行動を共にし、文学キャバレーで暴力と革命の演説に参加した。ピヨートルはその後車に乗るなり眠ってしまい、目を覚ますとそこは精神病院の中であった。

ここまでが導入部で、物語はこの青年ピヨートルを起点に展開していきます。

精神病院で目覚めたピヨートルは、自分が患者として扱われていることを知らされます。同じ病棟には3人の患者(マリア、セルジューク、ヴォロジン)と医師チムール・チムーロヴィチがおり、集団で治療を行う旨を伝えられます。3人はそれぞれの内包する幻想を共有し合うことでカタルシスを得ることができ、病状が回復すると医師から伝えられ、互いの内面世界を体験することになります。

革命ロシアの下で英雄チャパーエフに従う自分と、精神病棟で他の患者と共に幻想を共有して治療を受ける自分。どちらが夢でどちらが本物なのか。交互に現れる『現実(或いは夢)』は次第に混ざり合い、夢と現実の境がわからなくなっていく展開の最後に待つものは‥‥‥。

 

 この作品はたくさんのテーマを内包していますが、以下のテーマで読み解きをしていきます。

 

‟急激に生まれ変わる社会で起きた、内面世界と外界の偶発的逆転”

 

ロシア革命ソビエト政府、冷戦の終結、…。作中に存在する時間軸は激動の時代です。ピヨートルが夢で経験したのはロシア革命直後の社会であり、マリアが経験したのは1993年のモスクワ騒乱事件で砲撃された最高会議ビル砲撃事件である可能性が作中で示唆されています。時間軸の混ざる本作では細かな整合性は問いにくいですが、ロシア革命直後や、ソ連崩壊(1991年)直後の時期に焦点が当てられているところが気になります。どちらもそれまで続いてきた体制が崩れ、社会が急激に変化して先が見通せない不安定な状況にある時期でした。

共同幻想が揺らぎ、根底から覆される激動の時代に個人の精神はどのように変化しうるのか。以下の①~③でひとつずつ考えていきます。

 

①社会と共通認識

 社会に生きるわたしたちは夥しい量の社会通念、いわゆる‟常識”という認識を持っています。洋服を着るのも、朝起きて働いたり学校に行くのも、お金をやり取りして物やサービスを受けるのも、税金を払うのも、毎日‟当たり前”に行っています。わかりやすいのは法律ですが、それ以外にもたくさんのマナーや暗黙の了解、常識があり、それを個人個人が了解することで多人数の社会生活が成り立ちます。

本書のなかでは『共同的ヴィジュアライゼーション』という言葉で表されています。

われわれが住む世界もたんに、人々が生まれたときからそう見えるように教え込まれてきたものの共同的ヴィジュアライゼーションにすぎない。実際これは、ひとつの世代から次の世代へ引き継がれる唯一のものだ。このステップや草花、あるいは夏の夕暮れも、かなりの人数で眺めれば、みな、ともに同じものを見ることができる。だが、さきにそれがどのようなものであるかが示唆されていなければ、われわれは思い思いにみずからの心の反映を見ることになる。

 (「チャパーエフと空虚」群像社 p313より抜粋)

 花とはなにか、空とはなにか、家とは、身分とは、社会とは、…。世界に存在する色々なものがどのような意味を持つのか、わたしたちは生まれてから教育を受けることで徐々に知ることになります。

社会の体制が大きく変わり、今まで無邪気に信じていた考えが一気に覆ったとき、或いは特殊な状況に身を置き、既存の社会生活とかけ離れてしまったとき、共同幻想もまた変化するでしょう。戦争や革命によって‟常識”がいとも簡単に変わってしまうことは歴史上何度も証明されていますし、変化の渦中にいる人間の内面世界もまた変わると考えられます。

しかし、生まれてからずっと社会のなかで教育を受け、他者に囲まれて生活を続ける人々がそう簡単に精神を病んだり発狂したりする訳ではありません。多くの場合、少しずつ変化する現実に適応し順応できます。本書のなかではコカイン等のドラッグ、精神病院で使われる薬、事故による心的外傷、傷への恐怖など他の要因が示唆されています。他者の内面世界を共有するという異常な体験と閉鎖的空間に加えてこのような要因が加わることで、共同的ヴィジュアライゼーション共同幻想)を失い夢(内面世界)へ没入するという特異な状況が生まれたと考えられます。

 

胡蝶の夢

 本書のなかでは東洋の思想、特に『胡蝶の夢』に代表される老荘思想が示唆されています。荘子が夢の中で胡蝶になり、夢から覚めたあと自分は胡蝶になる夢を見ていたのか、それとも胡蝶が人間の夢を見ているのかわからなくなったという故事が『胡蝶の夢』です。大きな視点に立てば、あらゆるものに区別がなく、全ては同一であるという『万物斉同』という思想もあります。

作中でピヨートルは、革命時のロシアにいる自分が現実で、精神病院にいる自分は夢だと認識しています。そしてどちらの世界でももう片方の世界を夢として『記録』するように言われます。胡蝶の夢の故事を当てはめると、どちらが夢で現実なのか判断がつかなくなっている状況だと考えられますが、作中ではもう一歩進めて考えているように思います。

ピヨートルとチャパーエフの会話を一部引用すると

「仮におまえの目を、あの中国人と同じやり方で覚ましてやったとしよう」目を閉じたまま、チャパーエフが言った。「するとおまえはある夢から、ただほかの夢へと落ち込むだけだ。これまでおまえはそうやって延々さまよいつづけてきた。だがおまえが周囲で起こるすべてのことを完全に理解したなら、夢はただの夢になる。そうすればもう、どんな夢を見ようとも関係ない。そこから目覚めたときには本当の覚醒を経験するだろう、それも永遠の覚醒を。もっとも、そうしたければの話だが」

「どうして僕のまわりで起きていることがすべて夢だと言えるんです?」

「それはな、ピヨートル、たんにそれ以外のことなど起こりようがないからさ」

 (「チャパーエフと空虚」群像社 p278より抜粋)

 夢と現実の境が曖昧になるのではなく、すべてがただの夢となり、本当の覚醒を経験する。本当の覚醒とは何なのでしょうか。それを③で考えていきます。

 

③内的世界の拡大

 物語の終盤で、ピヨートルは革命の夢のなかでユンゲルン男爵やチャパーエフと哲学的な問答を繰り返します。この辺りから革命の夢(内面世界)が次第に変容しているところが気になります。

序盤では、マリアの夢を共有した後眠りにつき、革命の世界へと意識が移ります。戻ったときは精神病院での記憶を失くし3人と新しく出会うことになります。そこで3人と共にアート・セラピーを受け、アリストテレスの胸像をぶつけられて昏倒し、ピヨートルは再度夢へ落ちていきます。

中盤は革命の夢のなかで眠りにつき、間断なくセルジュークの夢へ没入します。セルジュークの夢が終わるとすぐに革命の夢へと回帰していきます。

終盤では、革命の夢のなかでヴォロジンの夢を共有することになります。そしてついに革命の夢は消え、精神病院の『現実』に目覚めてピヨートルは退院します。退院したピヨートルは現代の社会のなかに革命の幻影を見出し『現実』でチャパーエフと再会します。

 序盤で完全に別の現実(或いは夢)であった2つの世界は、中盤には切り替わりが早くなり、終盤では両者の情報が交じり合います。さらに仮想的な絶対空虚(または現実)の象徴、‟ウラル”に飛び込むことで両者は完全に融合し、ピヨートルは2つの夢を行き来する必要がなくなりました。ウラルについて本編では次のように語られています。

僕が目にしたのは、無数の色に光り輝く、虹の奔流とでもいうべきものだった。どこか無限の彼方から、同じく無限の彼方に流れていく広大無辺な川。(中略)考えたり想像したりできることはすべて、この虹の奔流の一部にすぎない。正確に言うと、この虹は僕が考えたり経験したりできることのすべてであり、僕の存在のすべて、あるいは僕ではないもののすべてだ。そして、前から自分でもわかっていたに違いないが、それは僕と一切異なるところのないものだった。僕が虹であり、虹は僕なのだ。僕はつねにこの虹であり、それ以外の何ものでもなかった。

(「チャパーエフと空虚」群像社 p410,411より抜粋)

 

ウラルとは老荘思想の『万物斉同』のような‟世界とわたしは一体であり、わたしとは大きな自然の一部である”という主張に見えますが、物語の結末と比較するともう一ひねりあるように感じます。

 老荘思想はどちらかといえば『個人は自然の一部である』という自然(外部の世界)優位の視点に立っている考えだと思われます。それに対して、ピヨートルが精神病院のある世界で目覚めたままチャパーエフと再会するという結末は、内面世界が外的な世界を凌駕した状態を表している可能性を示唆しています(京極夏彦風に言えば『彼岸へ行った』ということでしょうか)。

本来、社会の共同幻想を見る『現実』に内面世界を見ることは難しいです(それは幻覚、幻聴と他人からは断じられることも多く、何より自らの理性によって否定する方が多いでしょう)。しかし現実の世界でそれを苦も無くやってのけたピヨートルは、外的な世界よりも内面世界が優位に立った状態にあると推察できます。そしてそこには、すべての理から解放された『自由』があるのではないでしょうか。

作中で自由についてピヨートルはこう語っています。

「ひとつわかりました。自由というのは理性がつくりだすすべてのものから自由なときにだけあり得るんですね。その自由こそが『知らない』と呼ばれるものだ。」

(「チャパーエフと空虚」群像社 p402より抜粋)

そして物語の最後は、チャパーエフとピヨートルの会話で締めくくられます。

 「調子はどうだ?」と彼は言った。

「知りません」と僕は言った。「相矛盾する多彩な色にいろどられた内面世界の渦を理解することは困難ですから」

 (「チャパーエフと空虚」群像社 p446より抜粋)

 最後に「知らない」と言ったピヨートルは、外界の‟常識”から解放された自由を味わっていると思われます。しかしそれは、アンナに散々こき下ろされた『玉葱』のような空虚な自由かもしれませんが。

 

 

この文章はただの私見ですので、作品にはまだまだ沢山の解釈があるかと思います。

最後までお読みいただきありがとうございました。

 

 

*参考文献

 胡蝶の夢老荘思想の入門ならこちらが読みやすかったです。

老子・荘子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)

老子・荘子 (角川ソフィア文庫―ビギナーズ・クラシックス 中国の古典)

 

 

挿絵つきで世界史に明るくない人でもわかりやすいです。入門ならおすすめ。

世界史劇場 ロシア革命の激震

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完全に趣味。ハヤカワノンフィクション好きです…。

 

村上春樹の『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』より、河童のほうが「似ている」と感じたので(※個人の感想です)。おすすめです。

河童・或阿呆の一生 (新潮文庫)

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