本の虫生活

おすすめ本の紹介などしています。著者をア行からワ行まで順番に。

【百鬼夜行シリーズを読み解く】①‟名づけ”で読む姑獲鳥の夏

京極夏彦百鬼夜行シリーズについて1作品ずつ語っていく記事第1弾です。シリーズ第1作目『姑獲鳥の夏』の読み解きに挑戦してみました。

昨年末十二国記シリーズの最新作の発表があったように、今年こそ鵺の碑の続報があるのではないかと期待しています。続報への祈願を込めて全シリーズ振り返り記事を今年こそ書いてみます。

拙文で恐縮ですが暇つぶしにでもなれば幸いです。

※なお、以下では内容のネタバレを含みますので未読の方はご注意下さい。

 

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

 

 

解読のテーマは『名づけ』でいこうと思います。このテーマに沿って以下のトピックごとに読み解いていきます。

 

①妖怪の変遷(:時代背景)

②2人は探偵(:登場人物の役割)

③きみの名は(:憑き物落としとは何か)

④不思議なことなど何もない(:全体を貫く論理)

 

それではまず1つ目から。

 

①妖怪の変遷(:時代背景)

妖怪とは今やポップなキャラクターのように語られるようになりました。現代では、妖怪は脅威や信仰の対象として捉えられなくなり、畏怖や忌避感を失ったことで実態のないキャラクターとして社会で定着していきました。本作では、その妖怪本来の‟怖さ”とその終焉を描いているように思います。以下で小説の舞台設定について考えてみます。

小説の舞台は昭和27年夏。終戦から7年経ち、戦後の爪痕があちこちに残りながらもつかの間の平穏をつくりあげた危うい均衡の時代です。魑魅魍魎が跋扈する時代は過ぎ、科学技術が社会を席巻する現代へ邁進する時代に『妖怪』をテーマにしたところが興味深いです。

『妖怪』をテーマにするなら怨霊が幅を利かせた古の時代や、絵巻や怪談の流行した江戸時代などのほうがイメージがつきやすいように思います。しかし、昭和という時代も適していないとは限りません。社会の急速な発展によって迷信を駆逐していった一方で、様々な怪談が語られた時代でもあるからです。怪異が語られる最後の分水嶺としてこの時代設定は絶妙かもしれません。

ただ、ここで注意したいのが妖怪や怪異の‟質”です。

江戸時代の山村で交わされる妖怪談と、現代の都市で語られる幽霊談は自ずから意味が違っているのだ。

講談社文庫「姑獲鳥の夏」p27より抜粋)

 本編中に繰り返し語られる京極堂の蘊蓄に上記のような発言があります。

 この違いは、端的に言うと『共同認識』の差と考えることができます。

妖怪や怪異が迷信として一笑に付される新しい時代では、妖怪は『名前だけ』の存在になってしまったため、かつて内包していた‟怖ろしさ”を失い道化になったと考えられます。妖怪を題材にしたアニメなどが流行り、キャラクターとして大活躍することとなりました。

www.youkai-watch.jp

現代では、妖怪は子を奪う脅威や災厄を齎す忌みものという『共同認識』がなくなったためこのように明るい造形になったのかもしれません。新しい時代の怪異は故人の幽霊などの心霊話へと変換され、極めて個人的なものになっていきました。

 

本シリーズでは、個人的なものとして取り残された怪異に新たに名を与え、祓い落とす過程が描かれます。時代が進み怪異を迷信として切り捨てられたことで、穢れを抱え込み苦しむ人を癒す手法こそ、本編でいう‟憑き物落とし”なのだと思います。詳しくは③で考えていきます。

 

 

 

②2人は探偵(:登場人物の役割)
次は百鬼夜行シリーズの特徴のひとつ、探偵について考えてみます。

シリーズは妖怪の蘊蓄や独特の世界観が大きな魅力ですが、ミステリとしての側面もあります。ここで奇妙なのが探偵の存在です。

このシリーズには『榎木津礼二郎』という存在感たっぷりの奇天烈な探偵が存在します。けれど読んだ方はわかると思いますが、この探偵は本編で探偵の役割を果たしているとは思えません。終盤の謎の開示は憑き物落としを行う京極堂の独壇場で、探偵は「事実を言い当てる」だけで一切の説明をしません。何故探偵と、探偵の役割に近い拝み屋が共存するのでしょうか。

 

それは割り当てられた『役割』の違いだと推定します。

探偵はあくまで事実を指摘する者で、拝み屋(=京極堂)は事態を動かす者だとするとどうでしょう。よくあるミステリでは、探偵はトリックを暴き犯人を指摘します。そして犯人は自供して、なぜ行為がなされたのかを語ります。往々にしてミステリの解決編は探偵による『事実の開示』(推理含む)と犯人による『罪の告白』の二段構えで語られます。通常一人の探偵が事実の開示を行い、犯人に罪の告白を促して事態を動かします。百鬼夜行シリーズでは、探偵は解決編でほとんど役割を果たしません。しかし真実に結びつく重要な指摘を早い段階で行っています。そして関係者に対する事実の開示と推理、犯人の自供誘導等はすべて拝み屋が担います。探偵は自身が関わったことで事件へ与える影響を最小限に抑えるため、事実を指摘する以上のことは行いません。つまり『事実の開示』のみを行います。京極堂は関わること自体を嫌がるけれど、拗れた事件を終わらせるために終盤で濃密に関わりを持ちます。関係者の『罪の告白』をもコントロールして人に巣食った『憑き物』を落としていく緊迫のシーンは圧巻です。

 

 本編で繰り返し書かれる量子力学観測する行為自体が対象に影響を与える』という考え方は、探偵の在り方への示唆ともとれます。榎木津が自身を『神』と呼ぶのは、単に奇矯な人柄だからということではなく、神という絶対的な第三者という立場で正しく事件に介入することを志しているからかもしれません。京極堂については続く③で掘り下げていきます。

 


③きみの名は(:憑き物落としとは何か)

本編最大の山場、ミステリの醍醐味といえる終盤の憑き物落としについて考えていきます。ミステリや怪奇小説などは世に多くあるけれども、百鬼夜行シリーズのような他ジャンルの独特な融合が見られる作品は非常に稀です。

なかでも『憑き物落とし』という耳慣れないフレーズと突飛な解決編は、他の追随を許さない面白さがあります。本題に入る前に、憑き物落としの対象である『姑獲鳥』について一度おさらいしておきます(飛ばしてもらっても大丈夫です)。


姑獲鳥という妖怪
本編で詳しく述べられているので詳細は割愛しますが、お産で亡くなった女性の無念、または子を抱かせに来る妖怪、あるいは子を攫う鬼女、鳥など多くの属性を併せ持っています。

(下記サイトに江戸時代の画家、鳥山石燕によって描かれた絵が載せられていたので参考までにどうぞ)

 一見して正体が特定できない厄介な妖怪ですが、どうやら女性、母、赤子(水子)、鳥の要素を持ち、人を直接襲うよりも間接的に恐怖を与える類の妖怪のようです。

中国伝来の姑獲鳥は鳥でもあり、他人の子供を攫うという明確な脅威のある妖怪です。それに対して、日本のウブメは産女とも書け、お産に無念を残した母というイメージが強いようです。

 

終盤のシーンでは、単にトリックを説明し謎を解決する訳ではありません。ほとんど関係ないように思える蘊蓄や呪文を交えながら、じりじりと関係者の口を開かせていきます。事件とは直接関連しない家の歴史や過去の出来事を語り、どういう経緯で事件が起きたかを見てきたように披歴するシーンは手に汗握らずには読めません。

本来、人は他人の見ている世界を見ることは決してできません。京極堂の手法は個人の内的世界を言葉によって語り、個人の体験をあたかも全員が見ているような気分にさせることだと思います。言葉によってその場だけの『仮想現実』をつくりあげ、関係者全員が共有することでようやく『憑き物落とし』が可能になります。

 

①で妖怪や怪異は共同幻想を失い、個人的なものへと変化していったという話を書きました。京極堂は個人の抱える『妖怪』に名を与え(今回でいうと姑獲鳥)、関係者たちに仮想現実を見せることで実体を作り出し、祓おうとしているのだと思います。辛い気持ちを人に相談して気持ちを楽にするように、事件で傷ついた個人の苦しみに妖怪の名を付け、周囲に理解を促して気持ちを解放させる。こう考えるとカウンセラーに近い役割にも思えます。

なあ京極堂。あのとき涼子さんはー姑獲鳥からうぶめになったんだよ

講談社文庫「姑獲鳥の夏」p617より抜粋)

この言葉の意味は色々と考えられますが、涼子たちの苦しみに「うぶめ」という解を与えて救ったとも読み取れます。

涼子は子を攫ってしまう業から、梗子は愛する夫を裏切った自責の念から、牧郎は子を亡くした後悔から解放される。その結果、事態が動き悲劇が起こるとしても涼子は救ってほしかったのでしょうか。

最後は涼子さんだったんだ。そして君に感謝の言葉をいったのだ

講談社文庫「姑獲鳥の夏」p614より抜粋)

陰鬱な悲劇の最後に光明が差すこの表現が、答えなのだと思います。

次は、記事のまとめに入ります。

 

 

 

④不思議なことなど何もない(:全体を貫く論理)

 まずは、長文にお付き合いいただきありがとうございました。

 ④はほとんど書く内容がないのですが、作品の根底に流れている論理で気になったことを軽くまとめてみます。

この世には不思議なことなど何もないのだよ

 (講談社文庫「姑獲鳥の夏」p23より抜粋)

 京極堂の決め台詞としてとても有名なこの言葉。これこそ作品で最も重要な真理なのではないかと考えています。

姑獲鳥の夏』では、徹底的に個人の内的世界と外界の乖離について描かれています。見えるはずのものが見えなかったり、自己意識を自分で認識できなかったり、その所為で奇妙な事件が続いてしまいます。

だいたいこの世の中には、あるべくしてあるものしかないし、起こるべくして起こることしか起こらないのだ。それを僅かな常識だの経験だのの範疇で宇宙の凡てを解ったような勘違いをしているから、ちょっと常識に外れたことや経験したことがない事件に出くわすと、皆口を揃えてヤレ不思議だの、ソレ奇態だのと騒ぐことになる。

 講談社文庫「姑獲鳥の夏」p24より抜粋)

 世界は人間にとって未知であるけど、知らないだけで不思議な訳ではない。知らないことを意識せず、安易に不思議だと言って区別をすることが間違いだという京極堂の主張が、シリーズの屋台骨ではないかと思います。

幻想小説のように内的世界を魅力的に描写しながら、徹底してそれを否定するアンビバレンスには唸りました。

 

 

以上、記事第一弾でした。

最後までお読みいただき誠にありがとうございました。次回の記事はこちらです☟


 

※追記

・「姑獲鳥の夏」というタイトルについて

  姑獲鳥の夏
百鬼夜行シリーズは『魍魎の匣』や『鉄鼠の檻』のようにタイトルの付け方が一貫しています。しかし、よく考えてみるとこの『姑獲鳥の夏』だけ少し違います。


姑獲鳥の夏
魍魎の匣
狂骨の夢
鉄鼠の檻
絡新婦の理
宴の支度 宴の始末
陰摩羅鬼の瑕
邪魅の雫

 

いずれも『○○の×』という形式ですが、『姑獲鳥の夏』だけ前後の因果関係が一見してよくわからないのです。他の作品は、読んでみて大体納得するタイトルなのに、姑獲鳥の夏だけがずっとぼんやりとしたイメージでした。
一般に○○の季節というと、読書の秋、スポーツの秋、食欲の秋(秋ばかりですが)などが思い浮かびます。読書にふける秋、スポーツを楽しむ秋などは明確にイメージできるのに対して、姑獲鳥の夏とはどんな夏なのか、パッと想像できないところに違和感を感じました。しかし最近読み直して、この作品には『姑獲鳥の夏』以外のタイトルはないと思うようになりました。


夏とは、季節とは過ぎるものです。季節は時間が経ったら過ぎ、次へと巡ります。何度も同じ季節が来るけれど、決して同じ夏は来ない。通り過ぎ、失われる象徴として『夏』という季節をタイトルにしたのだとしたら、これ以上のタイトルはないと思いました。
陽炎が見せた幻影。死者の帰る盆。終戦の季節。
春でも秋でも冬でもなく、生者と死者の境界を曖昧にする『夏』が見せた幻影というのを、タイトルは表しているのではないでしょうか。

 

 

・参考文献

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

 

 作中で何度も登場する「画図百鬼夜行」の全画集です。文庫なのでそんなに高くないし、妖怪が好きな人は持っていてもいいかもしれません。ただ、画集であって説明書きがない妖怪も多いので、資料としてはあまり使えませんが。

 

異界と日本人 (角川ソフィア文庫)
 

 民俗学の本は難しくて読みにくそう、とか何を読んでいいかわからない、というときにおすすめなのが小松和彦氏。上記の本は浦島太郎や七夕説話などのなじみ深い昔話を通じて、日本人が妖怪や未知の世界とどう関わってきたのかを紐解いていく内容です。

京極堂の蘊蓄をより深く理解するのに役立つ1冊です。